戦争の正当化を受賞スピーチでするということ。。

「花・髪切と思考の浮游空間」に以下の記事を公開しています。
「正義の戦争」または失望


戦争の正当性をノーベル賞授賞式のスピーチでオバマが語り、話題をよんでいます。しかし、誰が正当・正義と評定するのか。それが議論になります。
神か。それとも国連か。あるいは米国か。
答えは簡単で明瞭。米国が決めるのです。
オバマの受賞スピーチに失望を感じ取った人も少なくないようです。
今朝のサンデーモーニングを視ていると、スピーチを聞いて、いまでもオバマを信じ、演説ではオバマの真の思いを語ったのではなく、米国の伝統を慮ったものだという発言もあった。しかし、受賞したのはオバマであって、米国ではない。オバマは自らの思想を語らなければなりません。
結局、オバマといえども、そしていかに強力な立場の米国大統領といえども、彼を支えた階層の請託を無視することはできなかった。それがオバマの演説に表現されたわけです。いうまでもなくアフガン戦争は米国支配層の思惑に沿っています。

ひるがえって日本国。
国の舵取りの一つひとつが徐々に政権にたいする失望を招いています。蛇行する舵取りは、政権についてからまもないがゆえの未熟さに由来するものとはいえません。偽善的ともいえる国民世論に応えようとする思惑がいまや桎梏となっているし、本来の民主党の思想と交差し、矛盾のただなかにあるといえそうです。蛇行はその結果でしょう。自民党政権がゆきづまり、構造改革に痛みつけられた沸点に達した国民の怒りは、自民党ではないという意味で正義の民主党を選択しました。自民党ではないというところに正義をただ読み取って。

その民主党。選挙中の同党の発言に正義を感じた人びとは、今現在の発言に不正義を見出すでしょう。論理的にいえば見出さねばならない。発言の内容はまるで変わったか、変わりつつあるのだから。ここに、オバマに等しい非合理を私は感じます。オバマも、日本の民主党も先にのべたように、支持層の請託を無視はできません。オバマはもちろん米国の二大政党の一つに属しているし、民主党もまた、自民党に代わりうる保守政党という属性から抜け出すことはできない。
結局、自民党とは異なる政党でありながら、ちがいは支配勢力の許容しうる程度のものにすぎません。民主党とは、自民党の否定から出発しているのではなく、いくらかの差分をもった政党ということです。だから、不正義の自民党にとってかわれば、すなわちそれが正義とはならない。かぎらないのです。

正義を決めるのは、以下にあげるただ一つの観点です。
モジモジ君は私の贔屓の一人ですが、そのモジモジ君が論文の末尾で教えてくれています。

人の生を無条件に肯定すること。そして、論理的であること。この二つさえあれば、私たちの間の対立は神々の争いなどではまったくない。それらがあれば、議論それ自体の持つ力だけでこの世界をよりよいものに考えていく可能性は既に開かれている。後は私たちが何を選択するかである。*1

この視点で、オバマを、そして(日本の)民主党の今を考えてみる必要があるのでしょう。
 

*1:「批判的合理主義の正義論」