3月のエントリ

花・髪切と思考の浮游空間(goo)の3月のエントリを列記します。


増税でミスリードを繰り返すのか。
消費税増税法案は撤回しかない
「茶色の朝」を迎えないために
(橋下思想調査)捏造に問題を回収してはならない
(橋下発言)教育や文化には補助金は要らない
(橋下発言)異なる価値観ならば去れ
首相のその一言 震災に何でも回収するなよ
子どもに冷房は要らない。厳しさに耐えよ・・・
橋下市長は絶賛するが−市名売却
名前売ってもうけます−泉佐野市の商い
切り捨てるためなら何でもやる/何もやらない
ナベツネと自分の独裁度を比べる橋下の欺瞞
ナベツネと橋下 解題いくつか
仕事を辞め、出国しなければならない日本/大阪
社内ニートという調整弁
弁護士の「お仕事」
フツーの生活を認めない人
滑稽で不気味な「維新」の世界
ルールの区別のつかない人
原発事故は組織事故だろ
輸出戻し税は凍結せよ
湯浅誠氏のメッセージ −辞任のコメント
やはり増税だけの政治でしょう。。
学者嫌いの橋下市長に捧げたい学者

菅前首相の功罪を論じてもはじまらない

民間事故調福島原発事故に関する報告書をめぐって意見・記事がさまざま出されている。それらは事故の原因究明を誰かの責任に収斂させてしまう視点で書かれたものが少なくない。以下の記事は、菅首相(当時)の役割を評価している点で異色ともいえるが、それでも個人の対応に照準をあてる点で他とかわりはない。これでは、今後の重大事故を防止するための教訓を今回の原発事故から学んだとはいえなくなる。
東京を救ったのは菅首相の判断ではないか

事故調報告が指摘しているのは、局面局面での個人の責任がそれぞれあったということとあわせて、まさに官邸・政府、各省庁、東電などをふくめて緊急時の危機管理にかかわる組織の対応が的確なものであったのか、なかったとしたらどこに要因があるのかを明らかにしたことにあるのではないか。端的にいえば、伝えられる範囲では、指揮系統の混乱をはじめリスクを管理し適切に対応策を決定し、指示し、徹底し、点検するというある意味で初歩的なスキームがほとんど機能していなかったように私は受け止めている。そこに今回事故の第一義的な教訓があるように思う。
この点で、上記の記事をみると、事故調報告書による菅首相(当時)の対応の誤りの指摘にむしろ過剰に反応しすぎて、反対に菅首相の判断を功績として強調するものになっているように思える。たしかに首相の判断はあったはずである。が、あえていえば、これでは、事故の犯人探しの裏返しの言説になってしまう。

組織事故とは、事故のもとになる要因が、個人にも、事故調報告はマニュアルに言及しているがルールにも、そして企業の経営や今回でいえば各省庁の運営のあり方など、いくつもの要因が複雑にからみあって起こるといわれている。自明のことだが、官邸をはじめとする指揮系統が今回のように乱れたままであれば、あってはならないことだが、仮に今後、重大事故が起きれば二の舞になる。はずである。一方、菅氏はすでに首相の座にはないのだから、菅首相の対応の責任追及に汲々としたり、逆に氏個人の功績を持ち出したとしても、すでに再現の可能性自体がないということになる。この点からみても、個人に功罪を帰すことの意味はこと再発防止対応という点ではほとんど意味がないように思える。むろん原因究明は必要で個々の責任もその中で明らかにしないといけないだろう。しかし、今回の事故を上にのべた組織事故としてやはり振り返ることが必要で、組織の問題として体制確立をふくめたリスク管理のあり方を根本的に見直すなど、その改善は避けてとおるわけにはいかない。

原発の存否は今後、政治の場で決着がつけられなければならないが、原発事故にかぎらず、現状のままで重大な事故にさいして的確な対応を政府に期待できるとは少なくとも私には思えない。国民に安心を与えるには、その前提となる安全のための的確な対応方針と体制が不可欠だと考えるし、だとすると、朝日記事の限界は明らかなように思う。しかも、記事が東京からの目線で振り返っているのは免れず、この是非にかかわり異見が出ることは容易に予測できる。
柿澤和幸弁護士の言葉を借りれば「個人は、自分と社会の運命をみずから選びとっていく主体」だ。そのために憲法は、メディアと政府にたいして自分にとって積極的に必要な情報を求めていく権利を保障している。
その意味でも、メディアは、自分と社会の運命を個人で選び取っていくに足る情報を発信する役割を担っており、それを大いに発揮しなければならないと思う。

橋下という人物を駆動させるもの

人は何によって動かされるのか。もちろん毎日の仕事に追われるなかでは、ルーチンにそれを坦々とこなしはしても、あらためてこんなことを考える余裕はないし少ないのかもしれません。が、自分が突き動かされたときをふりかえってみると、そこに自分ではない人の存在があって、その人との何らかのコミュニケーションがかかわっていてそれなしにはありえなかったように思えます。つまり自分ではない人の存在を前提に動かされる。もちろんそのあり方は多様であったにせよ。

たとえば医師であったり、教師であったり、あるいは弁護士であるのなら、いわゆる社会的な使命感とでもいってよいものが駆動する力になっているように思えます。医師は、目の前に健康を害している人がいれば、すぐさま手をさしのべ診断にかかるでしょう。もうかなり時がたってしまいましたが、神戸の震災でもそうでした。いち早くかけつけた人たちの中に医師の姿がありました。東北の地震もやはりそうでしょう。教師ならば、人間の全人格的な成長をうながすという役割は教師という職業を選んだ人にとっては他にかえることのできないものではないかと思えます。付け加えるならば、政治家だって本来、社会的使命に裏打ちされて志すものではないかと考えたりもするのですが、これは現実には正直あやしい気もします。そして、弁護士であれば、人の権利が侵害されているとき、それを黙って見過ごすわけにはいかないだろうと思えるのです。

なぜって。弁護士法をながめたことは、ありますか。最近、気になってみたのですが、こう書かれていました。

(弁護士の使命)
第1条 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
2 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。

だから、弁護士はもともと基本的人権というものを擁護する、これが使命とされています。また、社会正義を実現すること、これもまた使命なのです。もっとも正義というものはそれぞれの人の価値判断がともなうので、なかなかこれが社会正義だといっても全員一致とはならないのかもしれません。しかし、基本的人権ならば、明瞭です。なにしろ日本国憲法にうたっているものなのですから。

この文脈で考えた場合、どうもしっくりこない現実が今、私たちの目の前に現れています。ツイッターで細切れに「政治論」をのべる橋下大阪市長
この橋下氏は、はたしてこれで弁護士かと思われるような、市職員の調査に乗り出したのはよく知られていることです。さすがにさまざまな批判をあび、結局、調査内容を破棄することになりました。が、そもそも弁護士であるはずの彼が調査をもちだすこと自体に、基本的人権の擁護を使命とすると定めている弁護士法に反するのでないかと、調査が明るみに出て以来、疑念をもってきました。だから、この問題はこれで一件落着という具合に終わってしまうわけにはいかない問題をはらんでいると考えるのです。

こうやって人の自由に踏み込み、まあ見方の厳しい人ならこれを蹂躙するとよぶのかもしれないことさえやってはばからない橋下氏ですが、こんなこともありましたね。彼も自由を主張するときがあるようです。その一例が学校選択制です。
その提案理由に橋下氏は、選択の自由をかかげました。しかし、これって、交差点を右に回るのか、左に回るのか、それを選ぶ自由とはいうまでもなくちがいます。選択の自由といっても、仮に学区制が廃止されどこでも選べる状況がつくられたとしても、たとえば経済的な理由で自分の進学する学校がおのずと決まってしまうケースだって考えられるはずです。そもそも選ぶ自由をいう以前に選択肢がない状況がある。
仮に選択制が実施されたとして、過当な競争が今でもあるのに加え、さらにいびつな学校間の選択の競争は激しくなり、その結果、いっそうの色分けができあがってくるというものです。氏の視野は市長ですからむろん市全体にむえられているはずのものなのですが、その結果できあがった教育地図をどのように今度は修復していくのか、問われなければなりません。後は野となれ山となれ、では片付かない問題となりかねません。

自由を語る橋下氏のなかでは、自由は競争と常に同義のものとして描かれ扱われていると考えてよいでしょう。氏のいう「自由」とは、あらかじめこうして排除された人びとを考慮に入れたものではなく、自由な競争のスタートラインに立てる者を慮っての話でしょう。この場合、彼にとっては選択から排除される現実より選択し競争できる環境をつくりあげることが優先されるようです。ようは競争の自由とでもいいましょうか。競争すれば、必ず勝者と敗者が生まれる。勝負がつく。彼は、この勝者が特別に好みのようです。
氏のそうした価値観がよく表れている発言がつい最近、伝えられていました。

大阪市橋下徹市長は2日、経済産業省国土交通省などの中央省庁の官僚から府市統合本部で勤務したいとの希望が多く寄せられているとして、府市への出向を認めるよう求める「親書」を両省などに送ったと明らかにした。
市役所で報道陣の質問に答えた。橋下市長は「エリート競争を勝ち抜いてきたメンバーが、『府市でいっちょやってやるか』と思ってくれたのはありがたい。省庁には出向を認めてほしいと手紙を出した」と述べた。
府市の二重行政解消や、関西電力への株主提案などを検討している府市統合本部では、元経産省官僚の古賀茂明氏や原英史氏らが特別顧問として参加しており、官僚の関心を引いているとみられる。(2012年3月3日10時41分 読売新聞)
橋下市長が親書「府市への官僚の出向認めて」

大阪市で働きたいと考えている中央の官僚が多数いるので出向できるよう便宜を図ってくれと要請したという概略なのですが、注目したのは、市長が語っているコメントです。「「エリート競争を勝ち抜いてきたメンバーが、『府市でいっちょやってやるか』と思ってくれたのはありがたい」と語っています。こういうときに常日頃の思想というのがにじみでるものでしょう。彼は差別・選別に寛容な姿勢をもっていて、それがこの言葉となって表れ出てきたというものでしょう。
結局、橋下氏の日常を支え、駆動させているのは、特定の層*1などへの非寛容と、反対に自分の是とする立場への徹底した寛容(身内に甘い)、これが一体となった思想だといえるように思います。

そして、この寛容と非寛容を具現化するのに時間をかけないことに彼はことのほか価値を置くらしいということも伝えられるところから判断できそうです。まあスピード感命みたいな姿勢ですね。これが、中央の政治の現状とあいまって、また有権者の支持を得る要因の一つにもなっているようです。
しかし、これは、別のメディアによれば、このスピード感がつづめていえば「民主的なような手続き」というものが中抜きとでもいえるような実態でもあったと指摘されるわけです。この毎日の記事は、手続き上、ツイッターを経由して多数の人たちからの意見をあたかも集約しているかのようにみえて、実は、それを形式として間に置くだけのことで決定は氏の頭のなか次第ということを末尾で皮肉として伝えるものにほかなりません。

このような決定の経路に矛盾をはらめばこそ、これまでもしばしば彼は前言撤回を表明せざるをえませんでしたし、先の調査指示問題でも結局は当初の振り上げた手を降ろさざるをえなくなったわけです。どうも彼はその後、顧問弁護士にすべてを丸投げし、この問題からの逃亡を図っているみたいですね。彼のいう「決定できる政治」の程度とは、しょせんこんな浅薄なものであって、そこをあたかも民主主義的な手続きをふまえたかのようにみせるところに狡猾さをみてしまいます。この姿勢はだから、彼が常々、口にする「民意が許さない」などを理由に、彼自身が描く特定の対象に対する執拗な攻撃(彼自身がこうよんでいます)を繰り返すのと表裏の関係にあるようにみえます。

橋下氏が有権者に受け入れられてきたのに、中央政治のはっきりいえばていたらくが一役かっていることは否めず、毎日の流れていくる情報にみなさん、うんざりするのが現実でしょう。既成の政治と政党に批判の矛先を向け、他方で新しい潮流の動向に光をあてるというのが、今日のメディアの姿勢であることも論をまたないと思えます。この繰り返しをまさに性懲りもなくメディアがつづけ、そのメディアこそが政治の関心とならざるをえない中に置かれている有権者は、テレビから、ネットからの情報をソースに政治の情景を描いてしまうという相乗効果がそこに生まれる。その結果、橋下と「維新」の支持がさらに高まるという具合に。

ただ、私たちはつぎのことも念頭においておかなくてはならないように思います。中央の政治のていたらくがいよいよ有権者の眼に耐えがたいものになったのは、やはり政権交代以後でしょう。政権交代は、小泉に期待したのにやはり政治がよくなるばかりが痛みを国民が襲い自民党政治はさらに混迷を深め、政権はかわったものの変わるだろうという有権者の期待が淡いものにすぎなかったという結果、今日うまれているものでしょう。政権交代という一つの政治的動機が変化をもたらすものではないと結論づけるとはやすぎるのでしょうか。私にはそうは思えず、根本には有権者の意識を反映しないような多数が形成される選挙制度をあわせて見直さなければ、同じことを繰り返す可能性が繰り返さない可能性よりはるかに大きいように思えます。おそらく「維新」が前進したとしても同じだろうと私は予測します。

大阪府橋下徹知事は29日夜、大阪市内のホテルで政治資金パーティーを開いた。
秋に想定される府知事、大阪市長のダブル選を「大阪都構想」の信を問う最終決戦と位置づけ、「トリプルスコアで勝たないと役所は生まれ変わらない」と気勢を上げた。「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」と挑発的な言葉で市への対抗心をむき出しにし、秋の陣に向けた動きを本格化させた。
約1500人を前に、橋下知事は「大阪は日本の副首都を目指す。そのために今、絶対にやらなければいけないのは、大阪都をつくることだ」と大阪都構想への賛同を呼びかけた。
会場の拍手に、橋下知事はさらに熱気を帯びた。
「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」「大阪市大阪府も白紙にする。話し合いで決まるわけない。選挙で決める」
最後は都構想に反対する大阪市抵抗勢力として名指しし、「権力を全部引きはがして新しい権力機構をつくる。これが都構想の意義だ」と締めくくった。(2011年6月30日00時09分読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110630-OYT1T00014.htm

橋下氏を独裁とよぶ人も少ないない今日ですが、これは、彼が市長選に出馬する以前の政治資金パーティーでの発言です。むろん決起の場でもあることですから、語気を強めることが普通なのかもしれません。が、皮肉にも、彼自身が周りから批判される独裁という表現をもちい自身が語っています。それを単なるパーティーの席でのこととうけとるだけでは現実をみるかぎり、無防備とはいわないまでもまずい気がします。
それでも当分、この橋下氏に日本の政治はつきあわないといけないのはまちがいないようで皮肉なものです。

*1:労働組合、教師あるいは彼が「既得権益」を受けていると名指しした振興会、自販機を納入している指定母子福祉団体

2月のエントリ

花・髪切と思考の浮游空間(goo)の2月のエントリを列記します。


原発事故から学ぶ気のない政治家

橋下市長;人のはみるが、自分はみせないメールの論理

うすっぺらいワタミ・渡邉氏と労災認定の重さ

奨学金というローンに苦しむ若者たち

公務員給与引き下げは他人事だから。。

橋下市長、舵とりは大丈夫ですか。

橋下の強制調査と「排除するということ」

橋下命令は不当労働行為に限りなく近い

ネオフィリアまたはある党の行く末

石原エイリアン発言と憲法

猪飼周平−原発震災の支援とは何か

社会保障のための増税、増税のための社会保障削減

橋下氏を若者が押し上げたという件(メモ)

大阪市長選の投票率、若い世代が押し上げていた

 大阪市選挙管理委員会は21日、昨年11月に行われた市長選の年齢別投票行動の調査結果を公表した。
 前回選の投票率を30代で20ポイント、20代で16ポイントそれぞれ上回るなど、若い世代の関心の高さが、40年ぶりに6割を超える投票率につながったことを裏付けた。
 知事選とのダブル選となった市長選は、平松邦夫・前市長と前知事の橋下徹市長の直接対決に全国的な注目が集まり、投票率は60・9%と、前回より17・3ポイントアップした。
 調査は市内24区から5%ずつ抽出した有権者計約11万人を対象に実施。前回選との投票率の比較では、30代が20・8ポイント増の52・8%と最も上昇。20代は37・5%、40代は59・5%、50代は66・9%で、それぞれ17ポイント前後アップしていた。
(2012年2月22日08時09分  読売新聞)

橋下大阪市長の動向は、彼の一つひとつがリアルタイムで報じられているように、賛成する人も反対の人も、中央ももちろん大阪も、そして右も左も、無視できないもようといえる。

その圧倒的な人気は、記事が伝えるところからもうなづける。同時に、ちょっと疑問にも思ったりもして。
疑問に思ったのは、記事が若い世代が押し上げたと見出しをつけていることにたいして。記事が伝える範囲でも、若者の投票率が高くなっているのは明らかなのだが、他の年代にくらべて格段に高いといえるのかどうか、有意差があるのかという点。
上記「読売」の記事にある今回の年代別の得票率を前回と比較したものが以下の表(前回分は大阪市選挙管理委員会資料)。

今回 前回 差異
20代 37.5 20.8 16.7
30 52.8 32.0 20.8
40 59.5 41.8 17.7
50 66.9 49.8 17.1
60 73.7 61.2 12.5

これから読み取れるのは、以下。

  • いずれの世代も得票率が10ポイント以上上回った。
  • 得票率の伸び率は、30代>40代>50代>20代 の順である。


若い世代が押し上げたということは、その世代の投票率が他の世代と比較して高いことを意味するだろうけど、いうほどのものではないだろ、と思える。たしかに30代の投票率アップが、たとえば40代や50代と比較すると3ポイントほど高いにしても、それは見出しを裏づけるようなものなのか。ましてや20代はといえば40代や50代より伸び率が低いのだから。そもそもすべての年代で投票率がアップしているし、20代、30代がともに他の世代よりたとえば10ポイントほども高いのだったら、疑いなく記事に賛成するのだが。

ちなみに大阪市選挙管理委員会報道発表の文章はつぎのようなもの。記事のように若い世代に言及してはいるものの、押し上げたと評価をしているのではなく、「30歳以上39歳以下の年齢層の投票率が、前回投票率を20%を超えて上回っている点が特徴的」と事実のみをあげるにとどまっている。

 結果は、前回選挙時を17.31%も上回る60.92%と、同じく昭和46年以来40年ぶりに50%を超える投票率となった。
年齢別の投票率は、20歳以上24歳以下の年齢層が最も低く(35.15%)、その後年齢が上がるにつれて投票率も上昇し、70歳以上74歳以下の年齢層でピークとなっている(78.44%)。この結果は前回・前々回と同様である。
年齢別の投票率では、各年齢層で前回投票率を上回っているなかでも、30歳以上39歳以下の年齢層の投票率が、前回投票率を20%を超えて上回っている点が特徴的である。
男女別の投票率の比較では、総じて女性の投票率が、前回・前々回と比べても男性の投票率を引き離しているが、39歳以下の若年層の男女間の投票率の差が際立っている点が特徴的である。その他、55歳以上59歳までの男女間の投票率の差が10%近くまで広がっている点、前回・前々回と男性の投票率が女性の投票率を上回っていた70歳以上74歳以下の年齢層において、今回女性の投票率が男性の投票率を上回っている点も特徴的である。
「読売」はどこかに若者に支持された橋下氏というイメージが頭から離れない、いわば先入見にとらわれていると思える。事実は、市選管の結果発表に示されているように、すべての世代が投票率で前回を上回り、その結果、橋下市が約6割の得票を得たということ(下記;前回までの年齢層別投票率推移、同選管)。つけくわえれば、前回選挙でも各世代で前々回を大きく上回っている。

  

1月のエントリ

花・髪切と思考の浮游空間(goo)の1月のエントリを列記します。


橋下には得体の知れない調査を命じた責任がある

慎重にすべきは必修化そのもの

高橋哲哉講演「犠牲のシステム 福島・沖縄」について

貧困を測る尺度

議員定数削減・「身を切る」ことをめぐって

学校選択制にみる橋下ヒステリー

「票になる」というモノサシ

政治は変わらなかったではすまないだろう。

震災原発の支援とは− 猪飼論文の若干の感想

猪飼周平さんの論文について感じたことを少し絞って書いておきます。
 原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理 

最初にいっておくと、私の知る限りでは、原発・震災について記述された、もっとも分かりやすく体系的に問題が整理されており、対応策も的確に提示されている、これが一読した感想です。何よりも、地域に現在よこたわる課題が、氏自身の実践をとおして、当地住民の意識をくみ上げた上で提起されています。

  1. 私の原発震災への関わり
  2. 汚染地域に暮らすか、離れるか
  3. 福島において営まれている日常生活
  4. 住民主体の支援
  5. 福島のリアリティ、東京のリアリティ
  6. 国の責任について
  7. 福島の人びとに対する支援とは 〜 生活を支える支援に向けて
  8. 除染ボランティアの可能性
  9. まとめ

以上が論文の章立てですが、その整然とした配列からも論脈の概略が分かるのかもしれません。結論を先にいえば、猪狩氏は「9. まとめ」において、つぎの点を提示されています。

以上の議論を簡略にまとめると以下の6点になるであろう。
1. 避難・移住する人びとと現地にとどまる人びとの両方が存在することを前提として支援手段を考えるべきである。
2. 支援に際しては、住民主体の原則を踏まえるべきである。
3. 国民の冷淡な態度が背景にある以上、国に責任ある行動を取らせることが容易でないということを踏まえておくべきである。
4. 支援の目標として、現状では、被曝による健康リスクと避難・移住によって生活を失うコストとの間のジレンマを軽減することに置くのが望ましい。
5. 被災者の生活ニーズの充足のためには、社会保障制度への接続と個別性の高い必要性に対応できるケースワークを両輪で実施しなければならない。保健師などのケースワーク職種に関する体制整備が行政に求められる一方、市民セクターによる機動的なケースワークが大いに期待される。願わくば、行政と市民セクターの密接な連携の実現を期待したい。
6. 現在の行政主導の除染には深刻な限界がある。住民、ボランティア、地元業者、専門家、行政の連携による柔軟な除染体制が作られることが必要である。

何が響くのか

これまで少なくとも私の知るかぎり、原発政策にたいするどんなに鋭く手厳しい批判よりも氏の説くところは力強く、しかもその上で的を射ているだろうと私が思ったのは、つぎの一文でした。

究極的責任が国民にあるということを国民にわからせることができなければ、彼の被災地住民に対する約束の多くは、「やろうとしたけれどできませんでした」という形で反故にされ、最終的には、できもしない約束をしたことで、被災地がその約束を前提として振舞うようになる分だけ、現地に害をなす結果となる

もちろんこう氏が指摘する前提があって、その前提は少なくない国民が共有できるものだろうと思います。「今回の原発震災の一義的責任は東電と国にある。そして東電が国策の産物であることを踏まえれば、責任は最終的に国にあるといわなければならない。問題は、原発震災の責任が国にあるということが何を意味しているかということである」とのべたところから察することができるように、震災・原発震災への対応については「少なくない」国民がかかわりつづけることが、あらためて求められているということにほかなりませんし、氏は期待とともにそれを強調しているように読み取れました。

いくつかの議論について

私が議論にかかわり、考えてきた点のいくつかについて、氏の論点の整理と主張を参照しながら少しふれてみます。
1.地域にとどまるか、離れるか
福島第一の原発事故以来、この点は、私の周辺でも話題になり、さまざまな形で語られてきました。しかし、氏が指摘するように、「いずれの指標をみても、それらは、ひとまず放射能汚染地域の住民の大部分が、避難もせずに現地に住んでいる*1ということ」です。

少なくとも地域住民は、土地に留まることを選択しているということになるのです*2。実は避難か除染かという二項対立で論じられることもしばしばで、この問題を考えるときに多少ゆれたようにも思えます。それは、過去のつぶやきなど振り返ってみてみると、たとえば除染に重きを置きすぎという言葉に影を落としているようにみえるからで、除染には莫大な労力と金がともなわわざるを得ないことが頭を支配していたということに尽きるでしょう。ただ、避難か除染かという対立でとらえていたわけではなく、避難と除染、あるいは避難も除染もというのが私の理解でした。ですから、「帰郷する権利、離郷する権利。平和的生存権が等しくあるのなら、いずれも保障されなければならないだろう。東日本地震原発であらためて思うこと」などともつぶやいていました。

2.責任ということ
福島第一の事故の責任についてもいたるところで話題になりました。「今回の原発震災の一義的責任は東電と国にある」と明確に氏が指摘するとおりで、これは大方が賛成できるのではないでしょうか。
それをすすめて考えないといけない問題が残っている。これが、先に「何が響いたか」であげた国民の責任にいきつくということです。くりかえすと、電力産業が国のつくりあげたもので、そうなると国の責任に行き着き、究極的には国民に責任があるというのが氏の論旨です。
そこで責任というものを、仮に人間というものが他者のよびかけに応える存在であって、この応答可能性を責任ととらえるのなら*3、自らが被災者でないかぎり国民の責任は、おそらく国にきちんと被災地への対応をおこなわせるように監視することを含めて原発震災にかかわるということを意味するだろうと思います。逆にいえば、東電と国に責任があるといい切ってしまって、そこから先は自分にはかかわりがない、かかわれないとする態度では責任を果たすことは不可能だということでしょう。

3.支援のあり方

なぜ福島の人びとがかくも土地を離れないのか。この理由を知ることは、私たちが福島の人びとに対して何をなすべきかを理解する上できわめて重要なことだが、今のところはっきりしたことが言えるわけではない。ただし、それでもはっきりしていることはある。それは、被曝の危険という、土地を離れる強い動機づけにもかかわらず、多くの人びとがこれまで生活してきた地に依然としてしがみついているということであり、したがって、今次の原発震災へのアプローチは、このことを踏まえた上で行われなければならないということである。

氏のこの点での主張は、「その決定を尊重する形で支援を行なってゆくことが支援の原則である」と記述されているとおり明らかです。いいかえれば住民の自己決定に徹底して沿う形で支援するということですし、その具体化は、実際に現地で活動された経験にもとづく詳細な提案以上のものはないように思えますし、これに賛成します。つけくわえれば、ナショナルミニマム以上の生活支援こそが求められているという着眼を共有し、実現させることが不可欠だと認識することが求められているということです。

最後に

震災後、丸1年が目の前に迫っています。被災地の方がたの思いに関するかぎり、むろん私たちはそのリアリティをもちえないわけですし、現実は、猪狩さんによれば「問題を解決するには、結局のところ国民全般の態度を変えてゆくよりも、福島の地と人びとの抱える問題をなんとかしたいと考えている人びと(マジョリティではなくとも、たくさん存在する)が、どんどん問題解決に動いてしまうのが一番よい」と表さざるをえない状況にあるのでしょう。このなんとかしたいという思いから被災者に寄り添い、考え、それぞれの可能な行動をそれぞれの置かれている立場で広げていくためにも、猪飼氏の論文が大いに読まれなければなりません。

*1:氏はつぎのように指摘。「2011年10月の統計をみるかぎり、住民票を移した人びとの割合は数%に留まっている。これは、最終的に福島に戻ることを諦めた人びとの数がまだ少数であるということにほぼ対応していると考えられる。また、県外に避難した避難者数は、概ね6万人弱程度とみられている。全体として避難者は15万人程度とみられていることから、県内に避難した人びとが比較的多かったことが想像されるが、今のところ、避難者数を把握することは難しく、正確なところはわかっていない。また状況は時間の経過とともに変化してゆくとも考えられる。」

*2:最近の記事でも南相馬市の状況が「福島県南相馬市で、市立の小中学校全22校の児童・生徒が徐々に戻り、小中学生約6千人のうち半分以上が元の学校に通っている」と伝えられている。

*3:高橋哲哉戦後責任論』32-34頁