震災原発の支援とは− 猪飼論文の若干の感想

猪飼周平さんの論文について感じたことを少し絞って書いておきます。
 原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理 

最初にいっておくと、私の知る限りでは、原発・震災について記述された、もっとも分かりやすく体系的に問題が整理されており、対応策も的確に提示されている、これが一読した感想です。何よりも、地域に現在よこたわる課題が、氏自身の実践をとおして、当地住民の意識をくみ上げた上で提起されています。

  1. 私の原発震災への関わり
  2. 汚染地域に暮らすか、離れるか
  3. 福島において営まれている日常生活
  4. 住民主体の支援
  5. 福島のリアリティ、東京のリアリティ
  6. 国の責任について
  7. 福島の人びとに対する支援とは 〜 生活を支える支援に向けて
  8. 除染ボランティアの可能性
  9. まとめ

以上が論文の章立てですが、その整然とした配列からも論脈の概略が分かるのかもしれません。結論を先にいえば、猪狩氏は「9. まとめ」において、つぎの点を提示されています。

以上の議論を簡略にまとめると以下の6点になるであろう。
1. 避難・移住する人びとと現地にとどまる人びとの両方が存在することを前提として支援手段を考えるべきである。
2. 支援に際しては、住民主体の原則を踏まえるべきである。
3. 国民の冷淡な態度が背景にある以上、国に責任ある行動を取らせることが容易でないということを踏まえておくべきである。
4. 支援の目標として、現状では、被曝による健康リスクと避難・移住によって生活を失うコストとの間のジレンマを軽減することに置くのが望ましい。
5. 被災者の生活ニーズの充足のためには、社会保障制度への接続と個別性の高い必要性に対応できるケースワークを両輪で実施しなければならない。保健師などのケースワーク職種に関する体制整備が行政に求められる一方、市民セクターによる機動的なケースワークが大いに期待される。願わくば、行政と市民セクターの密接な連携の実現を期待したい。
6. 現在の行政主導の除染には深刻な限界がある。住民、ボランティア、地元業者、専門家、行政の連携による柔軟な除染体制が作られることが必要である。

何が響くのか

これまで少なくとも私の知るかぎり、原発政策にたいするどんなに鋭く手厳しい批判よりも氏の説くところは力強く、しかもその上で的を射ているだろうと私が思ったのは、つぎの一文でした。

究極的責任が国民にあるということを国民にわからせることができなければ、彼の被災地住民に対する約束の多くは、「やろうとしたけれどできませんでした」という形で反故にされ、最終的には、できもしない約束をしたことで、被災地がその約束を前提として振舞うようになる分だけ、現地に害をなす結果となる

もちろんこう氏が指摘する前提があって、その前提は少なくない国民が共有できるものだろうと思います。「今回の原発震災の一義的責任は東電と国にある。そして東電が国策の産物であることを踏まえれば、責任は最終的に国にあるといわなければならない。問題は、原発震災の責任が国にあるということが何を意味しているかということである」とのべたところから察することができるように、震災・原発震災への対応については「少なくない」国民がかかわりつづけることが、あらためて求められているということにほかなりませんし、氏は期待とともにそれを強調しているように読み取れました。

いくつかの議論について

私が議論にかかわり、考えてきた点のいくつかについて、氏の論点の整理と主張を参照しながら少しふれてみます。
1.地域にとどまるか、離れるか
福島第一の原発事故以来、この点は、私の周辺でも話題になり、さまざまな形で語られてきました。しかし、氏が指摘するように、「いずれの指標をみても、それらは、ひとまず放射能汚染地域の住民の大部分が、避難もせずに現地に住んでいる*1ということ」です。

少なくとも地域住民は、土地に留まることを選択しているということになるのです*2。実は避難か除染かという二項対立で論じられることもしばしばで、この問題を考えるときに多少ゆれたようにも思えます。それは、過去のつぶやきなど振り返ってみてみると、たとえば除染に重きを置きすぎという言葉に影を落としているようにみえるからで、除染には莫大な労力と金がともなわわざるを得ないことが頭を支配していたということに尽きるでしょう。ただ、避難か除染かという対立でとらえていたわけではなく、避難と除染、あるいは避難も除染もというのが私の理解でした。ですから、「帰郷する権利、離郷する権利。平和的生存権が等しくあるのなら、いずれも保障されなければならないだろう。東日本地震原発であらためて思うこと」などともつぶやいていました。

2.責任ということ
福島第一の事故の責任についてもいたるところで話題になりました。「今回の原発震災の一義的責任は東電と国にある」と明確に氏が指摘するとおりで、これは大方が賛成できるのではないでしょうか。
それをすすめて考えないといけない問題が残っている。これが、先に「何が響いたか」であげた国民の責任にいきつくということです。くりかえすと、電力産業が国のつくりあげたもので、そうなると国の責任に行き着き、究極的には国民に責任があるというのが氏の論旨です。
そこで責任というものを、仮に人間というものが他者のよびかけに応える存在であって、この応答可能性を責任ととらえるのなら*3、自らが被災者でないかぎり国民の責任は、おそらく国にきちんと被災地への対応をおこなわせるように監視することを含めて原発震災にかかわるということを意味するだろうと思います。逆にいえば、東電と国に責任があるといい切ってしまって、そこから先は自分にはかかわりがない、かかわれないとする態度では責任を果たすことは不可能だということでしょう。

3.支援のあり方

なぜ福島の人びとがかくも土地を離れないのか。この理由を知ることは、私たちが福島の人びとに対して何をなすべきかを理解する上できわめて重要なことだが、今のところはっきりしたことが言えるわけではない。ただし、それでもはっきりしていることはある。それは、被曝の危険という、土地を離れる強い動機づけにもかかわらず、多くの人びとがこれまで生活してきた地に依然としてしがみついているということであり、したがって、今次の原発震災へのアプローチは、このことを踏まえた上で行われなければならないということである。

氏のこの点での主張は、「その決定を尊重する形で支援を行なってゆくことが支援の原則である」と記述されているとおり明らかです。いいかえれば住民の自己決定に徹底して沿う形で支援するということですし、その具体化は、実際に現地で活動された経験にもとづく詳細な提案以上のものはないように思えますし、これに賛成します。つけくわえれば、ナショナルミニマム以上の生活支援こそが求められているという着眼を共有し、実現させることが不可欠だと認識することが求められているということです。

最後に

震災後、丸1年が目の前に迫っています。被災地の方がたの思いに関するかぎり、むろん私たちはそのリアリティをもちえないわけですし、現実は、猪狩さんによれば「問題を解決するには、結局のところ国民全般の態度を変えてゆくよりも、福島の地と人びとの抱える問題をなんとかしたいと考えている人びと(マジョリティではなくとも、たくさん存在する)が、どんどん問題解決に動いてしまうのが一番よい」と表さざるをえない状況にあるのでしょう。このなんとかしたいという思いから被災者に寄り添い、考え、それぞれの可能な行動をそれぞれの置かれている立場で広げていくためにも、猪飼氏の論文が大いに読まれなければなりません。

*1:氏はつぎのように指摘。「2011年10月の統計をみるかぎり、住民票を移した人びとの割合は数%に留まっている。これは、最終的に福島に戻ることを諦めた人びとの数がまだ少数であるということにほぼ対応していると考えられる。また、県外に避難した避難者数は、概ね6万人弱程度とみられている。全体として避難者は15万人程度とみられていることから、県内に避難した人びとが比較的多かったことが想像されるが、今のところ、避難者数を把握することは難しく、正確なところはわかっていない。また状況は時間の経過とともに変化してゆくとも考えられる。」

*2:最近の記事でも南相馬市の状況が「福島県南相馬市で、市立の小中学校全22校の児童・生徒が徐々に戻り、小中学生約6千人のうち半分以上が元の学校に通っている」と伝えられている。

*3:高橋哲哉戦後責任論』32-34頁