菅前首相の功罪を論じてもはじまらない

民間事故調福島原発事故に関する報告書をめぐって意見・記事がさまざま出されている。それらは事故の原因究明を誰かの責任に収斂させてしまう視点で書かれたものが少なくない。以下の記事は、菅首相(当時)の役割を評価している点で異色ともいえるが、それでも個人の対応に照準をあてる点で他とかわりはない。これでは、今後の重大事故を防止するための教訓を今回の原発事故から学んだとはいえなくなる。
東京を救ったのは菅首相の判断ではないか

事故調報告が指摘しているのは、局面局面での個人の責任がそれぞれあったということとあわせて、まさに官邸・政府、各省庁、東電などをふくめて緊急時の危機管理にかかわる組織の対応が的確なものであったのか、なかったとしたらどこに要因があるのかを明らかにしたことにあるのではないか。端的にいえば、伝えられる範囲では、指揮系統の混乱をはじめリスクを管理し適切に対応策を決定し、指示し、徹底し、点検するというある意味で初歩的なスキームがほとんど機能していなかったように私は受け止めている。そこに今回事故の第一義的な教訓があるように思う。
この点で、上記の記事をみると、事故調報告書による菅首相(当時)の対応の誤りの指摘にむしろ過剰に反応しすぎて、反対に菅首相の判断を功績として強調するものになっているように思える。たしかに首相の判断はあったはずである。が、あえていえば、これでは、事故の犯人探しの裏返しの言説になってしまう。

組織事故とは、事故のもとになる要因が、個人にも、事故調報告はマニュアルに言及しているがルールにも、そして企業の経営や今回でいえば各省庁の運営のあり方など、いくつもの要因が複雑にからみあって起こるといわれている。自明のことだが、官邸をはじめとする指揮系統が今回のように乱れたままであれば、あってはならないことだが、仮に今後、重大事故が起きれば二の舞になる。はずである。一方、菅氏はすでに首相の座にはないのだから、菅首相の対応の責任追及に汲々としたり、逆に氏個人の功績を持ち出したとしても、すでに再現の可能性自体がないということになる。この点からみても、個人に功罪を帰すことの意味はこと再発防止対応という点ではほとんど意味がないように思える。むろん原因究明は必要で個々の責任もその中で明らかにしないといけないだろう。しかし、今回の事故を上にのべた組織事故としてやはり振り返ることが必要で、組織の問題として体制確立をふくめたリスク管理のあり方を根本的に見直すなど、その改善は避けてとおるわけにはいかない。

原発の存否は今後、政治の場で決着がつけられなければならないが、原発事故にかぎらず、現状のままで重大な事故にさいして的確な対応を政府に期待できるとは少なくとも私には思えない。国民に安心を与えるには、その前提となる安全のための的確な対応方針と体制が不可欠だと考えるし、だとすると、朝日記事の限界は明らかなように思う。しかも、記事が東京からの目線で振り返っているのは免れず、この是非にかかわり異見が出ることは容易に予測できる。
柿澤和幸弁護士の言葉を借りれば「個人は、自分と社会の運命をみずから選びとっていく主体」だ。そのために憲法は、メディアと政府にたいして自分にとって積極的に必要な情報を求めていく権利を保障している。
その意味でも、メディアは、自分と社会の運命を個人で選び取っていくに足る情報を発信する役割を担っており、それを大いに発揮しなければならないと思う。