橋下のバッシングと日本的国民感情


「花・髪切と思考の浮游空間」に以下の記事を公開しています。



ムダだ、ムダだといいながら、最大のムダを語ろうとしない。これは、橋下がやり玉にあげる民主党もそうなら、彼自身もそうではないでしょうか。これは共通しています。
最大のムダ使いの一つが、たとえば米軍への、驚くような財政措置でしょう。この是非をはたして橋下が問うたことがありますか。彼がこうして声高に叫べば叫ぶほど、米軍への湯水のように注ぎ込まれる税金が後景に押しやられる。したがって、彼の言動は、国民・有権者の関心をそこ、に集中させる役割を現実に果たしていると思います。

橋下知事、政府概算要求を批判「赤字国債ダメ、国家公務員の給与カットを」 

鳩山内閣の平成22年度予算の概算要求について、大阪府橋下徹知事は16日、「国家公務員の給与をカットせずに(民主党が)公約を断念すれば、大ウソつきになる」と述べた。
橋下知事は「国民は赤字国債の増発は望んでいない。公約実現のために国家公務員の人件費に踏み込めるかどうか国民は見ている」と強調。
さらに、「徹底的な行革をしていないのに、赤字国債は認めてはいけない。断固反対」としたうえで、「政権の向かうところが見えなくなってきている。自公政権の末期のようだ」と批判した。
また、民主党マニフェスト政権公約)で掲げた公立高校授業料の実質無償化について、「大阪府だけがぽつんと有償ということは認められない」と述べた。

しかも、さんざん繰り返されてきましたが、またしても公務員バッシング。日本社会では、こうして国民の一部に照準をあて、他と区別しながら少数派をたたく。これが慣習化されているようにすら思えます。公務員は、働きもせず、高い給与をもらっていると、橋下は考えているにちがいありませんし、それは、すぐ前のエントリーでも大阪府の職員をたたいたわけですね。府の職員ですから、自分が「働いてもらう」はずの職員なのです。かつてよく読まれた本にカーネギーの「人を動かす」というものがあります。私も、こうした経営学や実業家の書いたものに触手が動くことは、まずほとんどありませんが、思い返すと、職員の研修か何かで活用したような記憶があります。カーネギーのいうことのすべてが今の社会にあてはまるものではむろんありませんが、人に働いてもらう上での要諦がふれられているような気がします。橋下はまず、自分の部下を信頼しない以上、こうした今回のような問題は連続するだろうと予測するのです。大阪府知事には、この本を読んでもらうのがよいのかもしれませんね。

こうして、「部下をも排除する」考え方が一つの運動として徹底して機能したのが新自由主義にほかなりません。今でも、解雇の自由などを池田大先生などは叫んでいるくらいです。まさに、かわりはいくらでもいる、が合い言葉であるかのように働く者を排除したわけです。
しかし、考えてみると、日本では何十年も前から、クロヨンなどという言葉がありました。税の捕捉率です。これで、集中砲火を浴びてきたのは、自営業者や営農者でした。給与所得者の捕捉率が9割なのにたいして、自営が6割、農業にいたっては4割だというものでした。こうして雇われる者とそうでない者の格差を問題視し、その結果は、自営業者や営農者への国家的課税強化にむかってしまう。
同じような構図です、橋下が主張するのは。手法が異なるものの、人の賃金を削れという橋下がいうところは、徴税という収奪とかわりはありません。

今日の状況は、たとえば国家公務員が高い賃金をもらっているから、端的にいえばワーキングプアがたくさん生まれ出ることになったわけではありません。ワーキングプアは、まさに大企業などが自らの利益確保を第一に追求していく上で、使い勝手のよいししくみをつくりあげる中で現れたものでしょう。
あたかも国家公務員という存在が、国民の窮状の原因であるかのように語る橋下はその意味でデマゴーグの資格は十分です。同時に、こうした発言がいまでもとりあげられる背景には、それを支持する部分が少なくないということも反映していると考えざるをえません。上からのイデオロギーにからめとられてしまう。
新自由主義を運動と位置づけたのはデヴィッド・ハーヴェイでしたが、運動とよばれる以上、それを支える国民の存在があって、それが大きいということを意味しています。
日本には、ずっと以前から村八分などという言葉ありまっしたが、それに端的に象徴されるように、差別と分断を促進してしまう風潮があったことも事実なのでしょうから。
新自由主義の克服はその意味ではこれから、まだまだということなのかもしれません。
(「世相を拾う」09226)