反貧困の流れを広げることについて


年がかわろうとするときに、つぎつぎに発表される解雇とその計画を到底、黙認することは私にはできません。したがって、このところ、この問題に力点をおいてエントリーを繰り返してきました。
そのエントリーの一つに、「労働者」というHNをもつ方からご意見をいただきました(「労働者」さんのコメントは、このエントリーのコメント欄を参照ください)。
そこには重要だと思われる論点をふくみ、いくつか感想をもつので、さらに提起されている質問に答えなければならないと私が判断する限りにおいて回答するために、エントリーをあげることにします。

■現状をどう理解するのか

「労働者」さん(以下、氏)とは、私はいくつかの点で意見が異なる。結局、そのちがいはこの見出し、現状をどう理解するのかという点におそらく起因しているだろう。つまり、氏がコメントで言及され、私のエントリーでものべた湯浅氏や河添氏の実践、そのほか労働組合や政党のこの問題での取り組みに私は積極的な意義を見出す。けれど、氏はつまるところ否定的ではないにせよ懐疑的な立場だといえる。
「どのように反転の萌芽があるのか」と問われるけれど、これを私は萌芽ととらえているということだ。エントリーの文脈からみても、これ以外にはないのだが。

氏の懐疑的な態度は、もっとつきつめると、「現実は一人一人が立ち上がるしか具体的な解決案がないのが現実だ」とする氏の把握の仕方に根本がある。その把握には、立ち上がらないで解決策があるのか、という反論が成り立つ。立ち上がらないで解決したいと氏が考えておられるとは思いたくないが、つまるところそんなことだ。
しかし、人間の歴史は、闘争の歴史でもあったわけで、現にかかわっておられる方ならすぐ分かるとおり、要求のある者が立ち上がらなければ物事は解決しない。そのかかわり方が様々あるにせよ。
解決の方途を政府に求めるのか、あるいは大企業に解決をしてもらうのだろうか。
そんなことはありえない。政府が動き、大企業が動くのは、一様でないにしても、国民の世論と運動が少なからずあるからだ。

もちろん氏が言及されているように、非正規労働者のおかれている雇用環境、劣悪な労働環境を私は知らないわけではない。しかし、誰か一人が言い出して、その意味で立ち上がり、共感をよび二人に広がり、三人、四人と広がり、大勢が賛同し、合流する。これが、ひとり労働運動だけでなく、国民のさまざまな社会運動の歴史が教える法則だろう。

先のエントリーでも言及したとおり、河添氏の話を聞く機会があった。彼は、彼のかかわる首都圏青年ユニオンに加入する青年労働者のことを語ってくれたが、容易に推測されるように非正規労働者の運動への組織はむずかしい。勤務の形態がまちまちな、個人加盟の青年労働者たちだし、第一、組合費を高く設定ができない。数百円の世界だ。彼らを同じ労働者としてまとめ、同じ労働者としてのいわゆる階級観をもってもらうための学習の時間すらどう確保するのか悩みの種だろう。河添氏は、組合にとって組織困難な対象を、どのように自覚を高めながら、一緒に取り組んでいるのか、その日、紹介してくれた。

労働組合の活動家だけでなく、非正規労働者と共同してイベントを取り組んだり、ホームレスの支援などの議論に私も加わることが少なくない。その限りで、今日の労働者、非正規労働者の置かれている立場は承知しているつもりだ。
ようは、出発点の現状をどうみるか、この点が氏と私は大きくちがうということだ。物事のどこに積極点を見出すか、ということに尽きる。私は、上記のような今日の運動のなかに積極点、つまり萌芽を見出すのだ。

■ブログに何を求めるのか

甘すぎる、抽象論だとする氏の感想はそのまま受け止めたい。
私がふれたい2点目は、しかしこの感想にかかわっている。つまり、抽象論だという指摘は、当該エントリーが具体的解決策を示していないということと直結している。

なるほど具体的解決策を、当該エントリーで私はのべていない。のべる必要もない。なぜなら、具体的解決策を提示するのが主題のエントリーではないからだ。
しばしば、何でもかんでも、(文章は)状況をのべただけにすぎない、本質は何かという議論や、問題をしめしているが解答がないという意見を目にする。あるいは議論がある。氏も同じような批判を私に向けられたわけである。
学術論文ならば、結論を欠いては成立しないだろう。イントロダクションや方法(実験データなど)、結果、考察がどのようにうまく書かれていても、結論を欠いているのなら、学術論文として成立はしない。あるいは、労働組合の方針書ならば、どれほど情勢を書き込み、前期までの到達を書き込んでいても、方針を欠くならば、誰もそれを労働組合の運動方針としないだろう。

けれど、ここはブログの世界。ブログに何を、どのように、どこまで書くのか、あえていえば意見の表明にすぎないのだから、それは管理人の判断に委ねられている。もちろん、事実誤認や虚偽を記したら手ひどい批判をあびなければならない。

つまり、2点目は、氏と私のブログの役割のとらえ方にかかわっている。
つけ加えていえば、ブログの役割を認めるが、限定的なものとして私はあくまでとらえる。現実世界にとってかわることはできない。
だから、たとえば高名ブロガーの言説をこのように批判するわけだ(参照)。

ようするに、具体的解決策を論じるのは現実世界のなかであるべきだ。労働の現場で、顔と顔をつきあわせ、議論すべきだ。いうまでもなく、ブログで論じていけないということではない。
ただ、そんなことをするより、現実の議論で大いに尽くせばよい。そのための議論に少なくない部分を私は割いているし、これからも割きたい。
いいたいのは、私とのバーチャルな世界で議論するより、折角、組合運動にかかわっておられるのなら、そこで議論すべきではないのか、これが私の考え方で、その方が具体的な展望を切り開くことができるだろう。

あえて、氏と同じ水準で反論するならば、こんな形になる。湯浅氏や河添氏の運動に疑念をもつのなら、だったらおまえがやれよ、という程度のものだ。無前提に結論を迫るのがいかに不毛な議論かが分かるだろう。
ブログで解決しようと思ってはならない。
コメントをいただく前に一連のエントリーをご笑覧いただければ、何を私が考えているのか、お分かりいただけたとは思うのだが。

■最後に

富と貧困がこれほどまでにひろがった日本では、国民のみなさん一人ひとりがそれを実感されていることだろう。富は一極に、そして貧困は裾野広く、比喩的にいえばこんな日本社会だろう。
労働者だけでなく、あるいは労働戦線だけではなく、すべての場面で私たちは貧困に直面しているということになる。
あらゆる階層が反貧困で立ち上がる条件が生まれている。その条件を生かすかどうか、それは一人ひとりの国民にかかっているということだ。
だから、これ以上の具体的解決策は、「労働者」さん、あなたが書かなければいけない。
(「世相を拾う」08268)

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