世相を拾う(12月20日)

ヒセイキという現実または靴を投げられたブッシュ

ブッシュが靴を投げつけられたそうだ。
会見を取材にきた記者が会見する側に大小の暴力的行為を働くとすれば、会見自体の成立条件を欠くことになる。当該の記者もそんなことは十分承知の上で、記者の職業倫理を上回る一イラク人としての彼にとっての良心がそうさせたことを意味している。徹底した反ブッシュの感情が込められている。

このニュースを知ったとき、私が思ったのは日本の今日であった。
抑えがたい感情でもって指弾されてもおかしくはない日本の企業の態度である。明日からはもう来なくてよいといわれて意気消沈しない人がいったい、いるだろうか。しかも、派遣先と派遣会社のきわめて非対称な関係をもとに、派遣元からたとえば派遣工1000人を削減するといわれた派遣会社から解雇を通告されるわけだから。
数日前のエントリーに記したように、以前ならまだ他の派遣先に派遣されることも可能だったのだが。いまは、景気の低迷が進行するなかで、仕事を奪われる。仕事に就くことを絶たれる。選択肢はない。
だから、いま強く思うのは、昨日の表題のとおり、働く能力のある者全てに機会を、ということであって、これが可能か否かは、あるいはこの考えで救済の道を探ろうとするか否かは、湯浅誠氏の言葉を借りると、日本社会の溜めのあるなしを象徴する。
つまり、この溜めをなくしたのは、新自由主義的諸施策の結果だと考える。労働法制の度重なる改悪だといえる。そして、その立場で雇用問題に片をつけようとする大企業・財界の姿勢だといえる。

これだけの構図が今、日本社会のなかで展開されているわけだから、気が早くて、情緒的な人ならば、そう、靴を投げよという思考になるのだろう。だから、それに従えば、靴を投げられるべきは財界・大企業という設定になる。
しかし、私はそんな情緒的なふるまいよりも、道理にかなった方途で、大企業に対峙しようとする労働者の地道な努力に注目したい。解雇された労働者と連帯してたたかう労働組合、そして政党に着目したい。緒についたばかりとはいえ、政府も動かざるをえなかったし、雇い止めを撤回させたり寮入居期間の延長を実現した、具体的な経験も生まれはじめている。

日本のカローシはすでに国際語として定着したが、おそらくヒセイキという言葉も(日本の)非正規労働者を表す国際語として成立するのではないかとさえ私は思っている。それほど日本の非正規雇用労働者の環境は、国際的にみれば、先進国のなかで特殊で劣悪なものだからである。つまり、他の外国語では置き換えられない内実を、日本の非正規労働者をとりまく環境はもっているということだ。ヒセイキという日本の現実を想わざるをえない。
では、だからこそ、現在の非正規雇用の実態からこんどは反転させて少なくとも西欧並みの雇用環境をかちとることはできないだろうか。

同一労働・同一賃金の原則がILOで確立されたのは1951年だから、およそ60年にもなろうとしている。だが、日本では、男女間の賃金格差はもとより、正規・非正規という雇用形態による賃金格差がいまだに残されている。これを是正するためにも、この年の瀬に解雇をつきつけられた労働者一人ひとりへの具体的救済を企業に求める必要がある。政府に指導強化を迫る必要がある。

解雇を撤回せよと声をあげ、同じ働く者を救済するのに、正規と非正規の区別は要らない。同じように、立ち上がって連帯すべきだろう。年末の解雇にたいして、労働者が立ち上がり、労働組合・政党が動き、自治体が救済措置をとろうとするとき、そこに、この反転にむけた萌芽があると確信するのだが。
(「世相を拾う」08267)