追悼− 加藤周一の眼


その死が伝えられたとき、さまざまな思いはめぐったのだが、書こうにもその気力は微塵もなかった。かろうじて翌日、数行の文章をエントリーした。

加藤の自伝的文章は周知のように『羊の歌』だが、2008年12月5日でもって、その終章が完結したといえる。1919年9月19日という具合に、1と9のつく日に生まれた加藤は、その年の干支にちなみ、『羊の歌』とした。講演の際もかわらずーというのも不思議とこの出で立ちしか私は浮かばない−タートルネックにジャケットをはおり、ややうつむき加減に、眼光鋭く聴衆をみすえ、該博な和漢洋の知を惜しげもなく披露する。単調なものいいだが、そこに華があった。何よりも分析の明晰さにうなった。
重厚な思想、社会批評を論じるときでさえ、簡潔明瞭な文体をもってする姿勢にも驚いた。選ばれ、あいまいさを許さない言葉と配列で研ぎ澄まされている。


加藤は、「1946・文学的考察」でデビューしている。中村真一郎福永武彦との共著である。若い彼らが、これだけの文章を書くのにも驚いたが、加藤自身がどこかでその客気にふれていたのをいま思いだす。敗戦直後の解放感も手伝ってか、血気にあふれ、自信迸る文体とでもいう以外に表現しようがないと、はじめて読んで思ったことを覚えている(古書店で買った冨山房百科文庫のもの)。加藤らマチネポエティックの3人は、この文章で同じ世代の星菫派、浪漫主義を強く批判し、自らの立場をそれと対置させ、新しい文学を宣言したのだった。

戦争の世代は、星菫派である。
詳しく云へば、一九三〇年代、満洲事変以後に、更に詳しく云へば、南京陥落の旗行列と人民戦線大検挙とに依て戦争の影響が凡ゆる方面に決定的となつた後に、廿歳に達した知識階級は、その情操を星菫派と称ぶに適しい精神と教養との特徴を具へてゐる。

以来、加藤の思想的立場はかわらない。

昨日14日、ETV特集に加藤が登場した。
生前最後の発言である。映像をみるかぎり、当時の病状は相当に進行しているようで、時折、中空を虚ろにみつめるようなその眼は、加藤のいつもの眼光とはあきらかに違っていた。今からいえば、それは死期迫る人間の眼であったのだ。にもかかわらず、明晰な分析がまさにとぎれもなく言葉となって表われ、我われをうなづかせる。
特集のタイトルは「加藤周一1968年を語る 〜“言葉と戦車”ふたたび〜」。これだけで、加藤の著に親しんでいる人であれば、「言葉と戦車」をすぐ想起するだろう。プラハの春という出来事に、加藤は社会主義の過去と現在を重ね合わせ、そして社会主義の希望を想った。結末はしかし、加藤の期待を見事に裏切った。社会主義への未来は絶たれたのである。
洋の東西を問わず1968年を眺めた加藤は、その眼で、現在をどうみるのか。加藤は1968年は過去ではないと語ったが、それは当時もいまも閉塞感漂うという意味においてである。たとえば秋葉原事件に加藤はそれをみた。事件は、下に沈殿し、よどんだものが爆発したと。
加藤によれば、現代は、非人格化、非個人化、非人間化をますます迫るものになるという。私たちを取り巻くものを仮に今、情況という言葉で表すならば、情況は加藤の指摘通りに動いていることを認めざるをえない。混沌としたなかから普遍的なものを読み取ろうとする加藤の眼は、余人をもって代え難い。

私には、資本主義の限界が語られはじめている今日、加藤ならばこれをどう考えるという具合に、物事をみる際の一つのコンパスのように考えてきたのだが、もうそれもできない。
加藤は対句を好む。この修辞法の多用は、それだけ漢籍に明るいことを示すだろう。番組の映像でも流されたが、この見事な対照を誰が忘れることができようか。

圧倒的で無力な戦車と無力で圧倒的な言葉

これほどの無駄のない、数式のような文体で世界の普遍性を表す人物を、前後において知らない。加藤の死はそれを強く印象づける出来事だった。

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