筑紫哲也が語った日本政治のがん症状


筑紫哲也氏の死去を、昨夜のテレビ番組のいくつかが取り上げていた。その中の一つで、生前、概ねつぎのことを語る筑紫氏の姿を映し出していた。
政治とは結局は税金の配分の問題である。過去にたいしても、将来にたいしても日本の政治はお金をかけようとしない、と。がん症状だというのだ。

この筑紫哲也氏の言葉は、今日の政治のありようをまことに簡潔でありながら、本質をしっかり捉えている。税金がどのようにつかわれるか、それが政治だという同氏は、小泉以来、特に際立った新自由主義的施策の結果、それがどんな現れ方をするのか、二つの階層を全体から切り取って表現したのだ。

つまり、過去というのは、これまで日本の戦後を現場で支えてきた高齢者たちを、そして将来とは、規制緩和と自由競争が叫ばれてきた風潮の中でその風当たりを真正面から受けてきた青年たちを指している。しかし、自民党政府はいずれも歯牙にもかけぬかのように彼らを扱っているというわけだ。

筑紫氏がいうように税金をどこに配分するか、この点に、政権のよってたつところが表れるというのは当ブログが繰り返しのべてきたことと重なる。だから、その見方からすれば、いまの自公政権は、財界・大企業の意向を中心に政治を動かしてきたということだ。たとえ連立の相手の公明党の支持基盤が創価学会にあったとしても。ようするに、どこから税をとって、どこにつかうか、ここに政党の姿勢もまた如実に表れるといえる。

ところが、政治・経済の軸を大企業・財界に置き、そのいいなりになってきたばかりに、米国発の金融危機によって、日本の現在は、景気の先行き懸念がいちだんと強まっている。規制緩和と自由競争という掛け声のもとに、経済のグローバル化のなかでも自らの利益確保こそを最大の目的にしてきた大企業・財界が海外依存体質をより強めてきたために、むしろその影響は深刻さを増す格好になった。大事なことは、この場合も昨日エントリーでふれたとおり、企業はその論理にしたがい、働くものにしわ寄せするということである。筑紫氏は二つの階層をとりあげて国民の窮状を表現したのだが、以下の数字は何を示しているのか。


4割弱が非正社員=派遣は倍増−07年厚労省調査

4割が非正規雇用という異常さ。日本の国内経済の痩せ細りをそのまま表現しているのではないか。
くりかえせば、

企業は経営者、株主だけでなく、そこで働く労働者から成り立っており、商品を買うのは消費者である。企業はこの意味で、地域の支えがなければ存立しえない。企業さえ利益確保すればよいとし、労働者も地域も犠牲にしてよいのか

ということである。
つまるところ、いまのこの時期に、大企業や財界だけの利益追求を第一に考える政治そのものの是非を議論しなければいけないのではないか。税をどこからとって、どこに配分するか、これが政治であるのなら、いつまでもこの視座から大企業・財界を欠落させ、横に置き、聖域とするような態度はあらためるべきではないのか。
先のようにわれわれにつきつけられる数字は、それを教えているのではないか。

自民党政治は、この間の世界的な金融危機もあいまって、これまでの大企業・財界、そして米国を優先してきた結果、日本社会全体に、国民生活にさまざまな亀裂を生み出し、いっそう拡大して、修復しようにもできないほどの立ち往生ぶりではないか。
だから、有権者自民党ではもうだめだという思いは強いし、よく理解できるものだ。

この右往左往ぶりを、たとえばダッチロールともいえるのではと考えていたのだが、すでに民主党簗瀬進氏がそう表現しているようだ。けれども、あわせて私が思うのは、ダッチロールは何も自公にとどまらないということである。
筑紫氏がのべたように、政治とは結局は税金の配分の問題であるのならば、たとえば税制上の大企業・財界優遇をどうするのかも、あるいは法外な軍事費も、問われないといえないだろう。そうなると、民主党はこれにどうこたえるのだろう。官僚政治打破や一般的なムダづかいの指摘のみではすまされない。

つまり、大企業・財界、そして米国にたいしてものがいえず、いいなりになってきた政治そのものが今日、行き詰まっていると、筑紫氏の言葉にふれてあらためて思うのである。
(「世相を拾う」08229)


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