政権交代で何が変わるのか −山口二郎氏が語らないもの


山口二郎氏にとっては、政権交代こそが日本の政治の将来を左右するものらしい。 総選挙の課題と銘打って、政権交代の意義を説得するという。しかも、説得する相手は、「民主党小沢一郎に不信感を持っている市民派」だという。この場合の市民派とはいったい何か。政権交代至上をうたってはばからない市民派も我われの周りにいるのだが、最近、市民派とか、平和・リベラルとかですべてを一くくりにすることにたいして違和感を少なからずもつようになった。
すなわち、平和とか、護憲をその人が希求しているとしても、一方で、政権交代こそ日本の政治の課題だと主張するとき、そこに欺瞞が残らないのか。あえていえば民主党への政権交代こそ命と叫ぶのは自由だが、平和、護憲と民主党は整合するのか。

自民党民主党も碌なものではない、選択肢がないのは嘆かわしい」と氏はいうが、選択肢がないわけではない。「自民党民主党も碌なものではない」と思うのなら自民党民主党も選ばなければよいだけのことである。それが選択である。「その手の純潔主義ほど政治の進歩を妨げるものはない。所詮政治というものは、より小さい悪(lesser evil)の選択」という政治学者の言葉はまことに笑わせるが、ここらあたりに、少数排除の思想が表れている。つまり、長いものにまかれろという最悪の政治思想ではないか。
こんな強がりをいう氏も、こういわざるをえない。
民主党は信用できないと言われれば、私も全面的には否定しない」と。

以下はほとんど意味不明、素人の私からみてもおよそ政治学者の発言とは思えない代物だ。例証もできないことを願望でのべるのだから。民主党を、社会民主主義というのはそこいらのブロガーくらいだと思っていたのだが、学者先生が規定するのだから驚いてしまう。

民主党が政権を取ったら改憲に着手し、戦争の片棒を担ぐというのは、被害妄想である。民主党を軸とした非自民連立政権は、小泉政権以来の自公政治によってずたずたにされた日本の社会を再建することを最大の使命とするはずである。この点について、小沢代表は現実的発想を持っている。昨年秋の大連立騒動の時には、私も小沢代表の政治感覚を疑った。しかし、その後は改心し、民主党を軸とする政権交代の実現に政治生命をかけている。「生活第一」という民主党の政策は、社会民主主義の方向である。

変化を知る、変わりうることを私たちが知ることは重要なことだ。
戦後このかた、自民党の長期政権がつづいてきているのだが、そのなかでも非自民政権が生まれてきた。その限りで、われわれは政権交代を知り、非自民政権を知っているのだ。そして、そんな政権交代劇が長年の自民党政権とほとんど変わりのないものであったことも私たちは知った。
同時に、昨年の参院選民主党は大勝し、参院与野党議席が逆転した。けれど、その後に待っていたのは自・民の大連立騒動だった。そんな紆余曲折があったのだが、政治は少しずつ動いている。薬害、派遣労働、過労死、名ばかり管理職、いずれも緒についたばかりの成果だが、動いている。民主党が動かしているのか。そうではないだろう。

それでも政権交代自体の重要性を氏が説くのなら、氏の頭にある民主党による政権交代が従来の政権(交代)と異なる可能性を明示すべきだろう。何がかわるのか、はっきりさせるべきだろう。

氏はいっこうに民主党結成のいきさつを語ろうとしない。「一党支配が社会を息苦しくするという法則」をいくら語っても、二大政党が同質ならば結果は同じことである。この点で、日本において二大政党政治が志向されてきた経過を横におくわけにはいかない。そして、二大政党政治小選挙区制と両輪であることは誰もが知ることである。

自ら「私は理想主義者であり、進歩主義者」だという山口氏だが、「小選挙区に関する限り、鼻をつまんで民主党に投票しようと訴えたい」という氏自身がかつて小選挙区制度推進の論陣をはってきたことを忘れてはならない。