世相を拾う(10月27日)


「花・髪切と思考の浮游空間」に以下の記事を公開しています。

企業の権益を守るためにある− 社会保障国民会議

恐縮ですが、私事からはじめます。
昨日は、来年予定している全国的な、大きなイベントのために、下見を兼ね、開催予定地の皆さんとの懇談などに、青年たちとともに一日を費やしました。一日の行程を終え、最後は博多ですから、もつ鍋を一緒につつきました。青年というのは、ふだん病院などで働く医師であり、看護師であり、薬剤師、調理師などとして働く若者たちです。彼らは、医療分野で働く者たちですから、いわゆる社会的な使命感が人一倍強い。いいかえれば、彼らは自らの存在が他者によって支えられていることを自認しているということです。他者の存在を前提にしているということです。

これを一つの立場としてとらえるなら、それは本来、いわゆる自己責任論という考え方と真っ向から対立するはずのものだと私は思います。しかし、このかた、日本では自己責任を問うのが当たり前のような、それにふれないとまちがいであるかのような風潮がまかり通ってきました。
一昨日、当ブログは、日本での新自由主義のゆきづまりに言及しました。
そこで、強調したのは、この新自由主義がそれまでの日本社会の安定に寄与してきた3つの柱を、逆に侵食してきたことでした。その3つとは、企業社会と自民党の旧来の利益誘導型政治、そして社会保障制度でした。エントリでは、そのうちの企業社会について少しばかり掘り下げました。
新自由主義はそれを下支えする運動があると指摘したのはハーヴェイでしたが、ファナティックなまでの、小泉元首相の「改革を止めるな」というアジテーションへの期待、共感として、まさに運動として表されたのが自己責任論でした(参照)。