世相を拾う(10月26日)

新自由主義の行き詰まり− 大企業本位を問え

構造改革は、貧困の広がりをはじめ、さまざまな社会の亀裂を生じせしめてきたわけですが、その矛盾は、日本では少なくとも西欧諸国とは異なって、自殺の増加、餓死事件の連続発生、そしてたとえば介護疲れによる犯罪などの形で表出しています。おそらく、ネットカフェ難民という言葉と実態も日本独特のものでしょう。
小泉が辞めて、構造改革の矛盾が語られはじめ、支配層もいまや構造改革をこのまま続けることはできなくなっています。構造改革がゆきづまっているわけです。

そもそも新自由主義構造改革とは、90年代までの日本社会の安定を形づくってきた条件を切り捨ててきました。


日本社会の安定をつくってきた条件の一つは、高度成長期とともに構築されてきた企業社会ではなかったでしょうか。
正社員として採用され、終身雇用で定年まで勤め上げる、これが当時の労働者の典型でした。この点では、不況になると首を切られ、業績に応じた賃金、40代をすぎると頭打ちになる賃金を採る西欧と異なるわけで、そのちがいをもとに日本型雇用とも呼ばれてきました。同時に、渡辺治によれば、企業社会は、欧米の福祉国家に代わり労働者を統合したのです。つまり、先にのべた雇用環境のなかですから、西欧では労働者を守るために社会保障制度の充実を柱にした労働者政権をめざす方向にインセンティブが働いたのにたいして、日本ではそうではなく、日本型であるがゆえに、激しい社内競争、昇進昇格をめざす方向に労働者の関心が向かうようになるというわけです。したがって、そこでは言論の自由や思想・信条の自由、あるいは労働組合への関心よりも、自らの企業への帰属に関心が集中するのです。その結果が、たとえば過労死やサービス残業の常態化を生み出しました。
ましてや、他人のことなどかまってられないわけです。当時もすでに非正規雇用労働者は下請けなどを中心に存在していたはずですが、失業とか非正規とは一部の問題であって、自分たちの問題ではない、として後景に追いやられてきたのではないでしょうか。

しかし、この日本型雇用がバブル崩壊後、経済のグローバル化のなかで足かせになる。日本の企業は国際競争力をいかに保持するのか、あるいは競争力をいかに回復するのかに心血を注いできました。BRICsと今日よばれる中国やインドを、あるいは米国やヨーロッパ諸国を相手に競争を余儀なくされる日本企業にとっては、それが最大の関心事であったといえます。
したがって、競争力回復のために標的にされた一つが企業社会でした。同じように、自民党の旧来の利益誘導型政治、そして社会保障制度がターゲットにされたといえます。

では、なぜ企業社会は日本企業にとって桎梏となってしまったのか。
労働者を企業につなぎ止めてきた結果、日本の競争力はかつて群を抜いていました。が、グローバル化のもとでは、収益性の高い部門にフレキシブルに労働力を集中させ、生産、販売できる体制が不可欠ですから、終身雇用はむしろ足かせになる。しかも、敗戦後の若い労働者で支えられてきた高度成長期とは異なり、この時期になると、彼らは中高年期に入っており、年功序列賃金がかえって重くのしかかってきたのです。これでは、日本の数分の一の賃金で労働者を雇えるアジア諸国と比較して割高とばかり、正規から非正規への置き換えが日本国内ですすむことになったのです。そしてグローバル化とともに安上がりな海外生産がふえる結果となりました。
同時に、この過程は、これまで日本の競争力を支えてきた国内の下請けの排除にもつながったことを意味しています。

こうやって、構造改革とよばれる日本での新自由主義の具体化を跡づけてみると、日本社会のなかでの企業の支配に行き着くのです。
ですから、言葉をかえていえば、新自由主義構造改革路線をめぐる対決の核心は、大企業優遇の政治を温存し、消費税もあげる方向で構造改革を手直しするのか、それとも大企業に応分の負担を求め、構造改革をやめるのかどうか、という論点にある。
新自由主義に反対するならば、あるいは小泉構造改革路線に反対する立場ならば、大企業優遇をただすという方向に帰着するのではないでしょうか。
この点を欠いて、いくら新自由主義に反対と口でいったところでほんとうの敵と対決することにはならないのです。

この間の新しい展開は、日本ではじめて新自由主義構造改革に反対する運動が生まれたことでした。たとえば反貧困ネットのように。全労連はもちろんですが、連合でさえ、非正規の問題を無視するわけにいかなくなって、大きな広がりをみせています。
蟹工船ブームが世間で話題になって、柄谷行人などはこれを揶揄し、水をさそうとしていますが、単純ではないにしても、今日の日本社会が矛盾をはらみ、不満が鬱積し、現状を脱しようとする意思がそこに働いていることをブームは示しているのではないでしょうか。
しかも、4月1日からはじまった後期高齢者医療制度は、当該の後期高齢者はもちろん、多くの国民から批判が集中し、制度が設計された当初からしてみるとその姿を大きく変更せざるをえませんでしたし、そのことによって新たな矛盾を生じるという自民党政治の政策的混迷もまた、構造改革路線の矛盾の露呈だと私は思います。


消費増税へ年内に工程表  河村長官「先送りしない」

医療と介護の費用として2025年段階で11兆―14兆円の新たな税財源が必要になるとの試算結果を、政府の社会保障国民会議は23日、医療・介護・福祉分科会に示しました。新たな税財源を消費税率に換算すると3―4%に相当すると算出しています。「社会保障の財源確保」を口実にして消費税増税論議を加速させる狙いです。同会議は5月にも、年金財源を「全額税方式」にした場合、消費税率は9.5―18%になるとの推計を公表したのです。

消費税増税によって応分の負担を回避しようとする大企業本位の立場を、明示的に河村官房長官も、社会保障国民会議もとっています。
そうであるならば、繰り返しますが、大企業優遇の政治を温存し、消費税もあげる方向で構造改革を手直しするのか、それとも大企業に応分の負担を求め、構造改革をやめるのか、これを我われは明確に問わねばなりません。