新テロ法延長の意味・または・民主党の動揺


アメリカの戦争戦略が世界のいたるところでうまくいかなくなっているなかで、米国は、日本にたいする派兵要求をいちだんと強めています。安倍首相が任期中に改憲をやるといっては頓挫し、その後のテロ対策特措法の延長さえ危ぶまれる状況にあったわけですから、なおのこと、日本にたいする米国の苛立ちと不満は相当のものだと考えないといけないでしょう。

ふり返れば、安倍氏の明文改憲主張が逆に国民の改憲反対運動に火をつけました。九条の会の活動をはじめ、世論の改憲反対の意思は確実に高まっていったのではないでしょうか。
それは、この間のメディアの世論調査にも表われています。読売でも、朝日・毎日でも同様の結果です。よく引き合いに出されるのは九条の会ができた2004年には、改憲賛成は65%(読売)でした。けれど、それ以後、改憲派の占める割合は徐々に低下し、今年4月には41.5%となって、ついに改憲反対派を下回ることになったのです。


こんな世論の動きに反応したのが民主党でした。思い出していただきたいのは、04年マニフェスト民主党は明確に改憲を主張していました。ところが、参院選前の07年マニフェストでは改憲主張を封印してしまったのです。同党のこんな変身は何も防衛問題にとどまりません。同じく参院選前に、従来、同党が新自由主義的政策を自民党と先を争っていたのに、これもまた、横においてしまった。そして昨今の右に左に揺れる同党。選挙前のいつもの行状といわなければなりません。

話を元に戻すと、安倍氏のあとを継いだ福田氏の難問の一つもここにあったはずです。改憲の青写真を描く上で手詰まりの状況のなかでの政権誕生でした。小沢氏との大連立密室協議はまさにこの過程のなかでの選ばれるべくして選ばれた選択肢の一つでした。現状でこそ自公で衆院は3分の2を上回りますが、今後、民主党が同意しなければ改憲条件の3分の2はとれないのですから。しかし、結局それも破綻。
ただ福田首相の選択肢は、もう一つありました。安倍氏のような明文改憲路線ではなく、解釈改憲を先にすすめる手法です。つまり、その手段が派兵恒久法でした。したがって、それは現局面での焦点ともいえるものです。

なぜ、派兵恒久法が焦点なのか。
麻生氏が国連の場で米国への忠誠を誓ったのも、先にふれた日本への不満と苛立ちに応えるためのものだと見て取れます。日米同盟の強化を強調し、集団的自衛権に踏み込むことによって、つまり自衛隊の海外派兵に言及することによって、日米関係を危うくしないという、ある意味で決意の表われでもあったでしょう。

当の米国では大統領選の最終盤です。オバマ優勢が伝えられていますが、マケイン・共和党タカ派オバマ民主党ハト派などと単純化してしまうと、日本にとっても、世界にとっても禍根を残すことになりかねません。私はどちらがなっても、ほとんど変わることはないだろうと予測しますが。
むしろ民主党共和党と比較して、同盟国により負担を求める傾向が強いと説く識者もいるくらいです。
その上で、注目すべきはジョセフ・ナイオバマのブレインに入っていることです。忘れもしませんが、ナイは、新ガイドラインをつくった人物。いっそう日本への要求、米国の肩代わりを求める圧力は強まると推測するのです。

今国会では、衆院をすでに新テロ法延長案が通過しました。特措法方式は、本来の米国の要求に応えるには間尺にあわないことははっきりしています。自民党は、特措法を重ねるごとに自衛隊の活動と役割をしだいに拡大していますが、それでも強い限定があるのにちがいはありません。
これをひとまず突破する手段が、派兵恒久法と位置づけられるでしょう。

いまの局面で、自民党からすれば民主党を抱き込むもっとも有力な手がかりが派兵恒久法でしょう。国連のお墨付きがあれば地上軍派兵もOKという、この面では自民党以上に右寄りともいえる対案をもつわけですから。

こうした解釈改憲を前面に押し立てて、米国の世界戦略に応えていく、その過程で民主党との協調を確立し、改憲への条件を構築していこうというのが自民党のいまの戦略だと思えます。
その上での、今回の新テロ法延長法案の提出であって、国会の中で自民党公明党民主党がどんな態度をとるのか、注目せざるをえません。

単なる給油法案という言葉で片づけてしまうのはやめたほうがいいかもしれません。一つひとつの動向が、改憲への道に直結しているのですから。新テロ法延長法案の審議の重さは、本来そこにあるのではないでしょうか。
(「世相を拾う」08213)



追記;ガイドラインをめぐる日米の協議のもようが以下の東京新聞の記事で紹介されています。

【新防人考 変ぼうする自衛隊
第四部 
文民統制の真相 <5>ガイドライン

■悲劇の裏で同盟強化
 グラウンドは怖いほど静かだった。

 1995年10月21日、沖縄県宜野湾市海浜公園で開かれた県民総決起大会。参加した8万5千もの人々は、米兵が起こした少女暴行事件への怒りと悲しみを共有していた。

ワイシャツの袖をまくり上げ、壇上に立った大田昌秀沖縄県知事は「幼い子どもの尊厳を守れなかったことをおわびしたい」と陳謝した。若者代表の女子高生が「軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください」と訴えると、涙ぐむ人もいた。

集会は米兵の綱紀粛正、日米地位協定の見直しや基地の縮小など、反基地運動への取り組みを決議して終えた。日米両政府が沖縄米軍基地の整理・縮小を協議する特別行動委員会(SACO)を設置するのは翌月のことだ。

 「事件をきっかけに日米関係のあり方が見直される」。そんな沖縄の期待は見事に裏切られる。翌年四月、両政府は日米の軍事協力を極東からアジア太平洋に拡大する日米安全保障共同宣言を発表。同時に米軍と自衛隊が物や労力を融通し合う日米物品役務相互提供協定(ACSA)を締結、軍事同盟は格段に強化された。

実は、事件とは無関係に、日米関係を見直す動きがひそかに進んでいたのだ。

95年9月上旬、東京・霞が関。外務省の会議室で、折田正樹北米局長とジョセフ・ナイ米国防次官補が向かい合っていた。後に延期されたが、2カ月後に迫ったクリントン大統領訪日の際に発表する日米安保共同宣言の文言を詰めていた。

共同宣言は、日米防衛協力指針(ガイドライン)見直しに言及し、日米安保体制を再確認する内容だった。

この時期、ガイドラインの見直しが浮上したのは、北朝鮮による核開発危機がきっかけだった。核開発を進めていた北朝鮮は93年3月、核拡散防止条約(NPT)脱退を表明。米国は朝鮮半島有事が起きた際、自衛隊がどんな米軍支援ができるか、日本政府と非公式協議を繰り返した。

機雷掃海、米艦艇への洋上補給、負傷兵の捜索・救難。米国が示した支援要求は2千項目近くに上ったが、日本側の回答はことごとく「ノー」。怒った米側は、周辺有事で米軍支援が可能となるようガイドライン見直しを要求した。

折田氏は「朝鮮半島有事で日本は何もしないで済むはずがない。見直しは必要。これは日本の安全の問題だと思った」と回顧する。

大田知事は、米国の論文からガイドライン見直しの動きを早い段階からつかんでいた。ベトナム戦争当時、沖縄が米軍の前線基地と化し、地元の労働者が死体処理に従事させられた姿が脳裏に浮かんだ。

 「周辺有事で日米が連携すれば、ベトナム戦争のような事態が再来しかねない」

沖縄の基地問題に注目が集まる中、日米両政府の作業は水面下で進んだ。「基地問題は重要だが、安保体制の充実もないがしろにできない」(当時の外務省幹部)との意識が働いていた。

96年4月17日、東京・元赤坂の迎賓館。クリントン大統領と橋本龍太郎首相が署名した日米安保共同宣言には「ガイドライン見直しを開始することで意見が一致した」と明記された。沖縄の少女暴行事件は、日米関係に何の変化も呼び込まず、自衛隊と米軍が一体化する最初の一歩がこの日、踏み出された。(肩書はいずれも当時) =おわり

 <メモ>日米安保共同宣言 1996年4月、当時の橋本龍太郎首相とクリントン米大統領が署名した。冷戦期の日本防衛を主眼とした日米関係をアジア太平洋の広域的な同盟に移行させた。日米防衛協力指針(ガイドライン)見直しにつながった。
日米防衛協力のための指針(ガイドライン) 日米安保条約の円滑な運用のために作成された日米の軍事協力方針。新・旧2種類あり、冷戦後、97年改定された新ガイドラインは、日本防衛に加え、周辺有事の際の日米軍事協力に踏み込んだ。

*点線は管理人。

同文を、花・髪切と思考の浮游空間にて公開しています。