孤立死と社会は衝突するのか…


孤独死の問題を以前にとりあげたことがある。
その際、エントリでは、実際に、情報の共有化をすすめる際の障壁があることを指摘した。

一人暮らしの中には、単に相手がいない/いなくなったというだけでなくて、さまざまな事情で独居を選ばざるをえなかったり、あるいは自分で好きなように暮らしたい、世間の干渉を受けたくないなどの理由で一人暮らしをしている人もいるだろう。この人たちにとっては、守るべきは自由であり、プライバシーなのである。その人たちが自由やプライバシーをいったん選べば、ドアのノックもなくなり、黄色い布を下げるという行為からも解放される。監視や規制から免れ、見えない空間と時間を手に入れるのだが、片方で孤独死というリスクを抱え込まざるをえない。自由の代償としてリスクを引き受けるわけである。
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つまり、外部からの孤立を望む場合がありうるということだ。
しかし、この場合も、孤立を迫る要因が背景にある。だから、孤立を望むのにも、積極的/消極的理由があるということだろう。
孤独死が問題として存在するのは、簡単なはずの解決が他の価値と衝突するからである。
衝突があるがゆえに、孤立死ゼロと、以下の記事のいう「監視社会」は対立する。

孤立死がゼロの社会は、個人情報の管理が徹底された「監視社会」だろうか。独り暮らしで誰にもみとられずに死亡する「孤独死」が社会問題となる中、厚生労働省孤立死をなくすための検討会を昨年8月から開催している。この会議では、独り暮らしの高齢者だけでなく、地域社会から「孤立」している人を広く対象にした情報取得が必要であるという方向で議論が進んでいる。高齢者らが安心して暮らせる地域のコミュニティーづくりは社会福祉に欠かせない重要な取り組みだが、互いに見張り合う監視社会に向かう危険性もはらんでいる。
孤立死ゼロと「監視社会」

厚労省は2月、孤立死をなくすための議論を重ね「論点整理案」を示した。
その整理案によると、孤立死*1を防止するためには地域のつながりを再構築する必要がある。と、平板に結論づけている。
高齢化や核家族化の進行、マンション世帯の増加などにより地域における「つながり」が喪失しているともいう。したがって、「地域のつながり」の再構築が必要になるというわけだ。

 具体的には、高齢者などが地域社会から孤立しないよう、福祉行政、消防、水道などの公的機関や、あらゆる世帯を対象とする公共サービス(電気、ガス)、社会福祉協議会自治会、民生委員やケアマネジャーなどが主体となって多様な「つながり」をつくることが重要であり、「多様な主体の間で一定の情報を共有することが肝要である」としている。

このように、記事は、孤立死の解決の具体的な道筋を示しているが、そこには冒頭にあげた障害がある。
記事もこの点にふれている。

 これまでの議論では、自分の情報を開示することを望まない人や、地域社会とのつながりを持つことを望まない人が少なくないことが個人情報を取得する上で障害になっていることが指摘されている。
 この日は、個人情報保護法やプライバシーに対する関係者の「過剰反応」が問題になった。本人の同意を得ないで情報を共有することは「情報の第三者提供となり、個人情報保護法で禁止されるのではないか」との意識が関係者の間にあるという。

重要なのは、本来、他者からの「支援」が必要なのに孤独を迫られている人がいて、実際にどう支援できるかということだ。機会されあればいつでも牙をむく強者のなかにあって、守るべき自由やプライバシーも何もなく、無防備でたとえばただ貧困のなかにいる人たちの存在だ。排除された彼らは、別のいいかたをすれば孤独を「装う」、装わざるをえない。無関心を装わざるをえない。

いまの世の中、「他人に干渉されたくない」という私的自由を強調する風潮がある。私的自由の一面的強調は、孤立死につながる無関心と表裏の関係にある。
監視や規制から免れ、見えない空間と時間を手に入れることを仮に自由だとすれば、一方でその自由は孤立死というリスクを抱え込まざるをえない。自由の代償としてリスクを引き受けるわけである。そもそもその自由は他者を前提にしているのだけれど。
福祉はそんな自由との拮抗関係のなかにある。

*1:厚労省は、「孤立死」という言葉を使用し、「孤独死」と区別している。「孤独死」は阪神・淡路大震災仮設住宅の高齢者がひっそりと亡くなったことが発端だといわれるが、厚労省は、高齢者が1人で亡くなる場合だけでなく、高齢の夫婦が2人で亡くなるような場合も防止する必要があるため、「地域から孤立している状態」も含める意味で「孤立死」としている。