「お前の代わり? いくらでもいるよ」。
思惑どおりに抵抗もなく事を運ぼうと思えば、暗黙の了解が要る。根回しが常態化するのも、了解をとりつけることにほかならない。
案件が理不尽なものである場合、この「暗黙の了解」状態はなおさら必要となる。そのために四方八方からの力と全神経とが注がれることになる。
新自由主義的施策、とくに小泉構造改革では、隠すことなく喧伝された。
「改革」には痛みをともなうもんだ。
その際、自己責任と言う言葉が大いに効力を発揮した。
新自由主義は、それを推進していく上で、国民の中に必ず推進していくためのしかけを構築する。それは端的にいえば分断と差別という形で、弱者に牙を向けてくる。医療においては、医師と国民、あるいは医療従事者と国民、さらには社会保険加入者と国民健康保険加入者などのように。加えていえば、老人と現役世代、生保受給者とそのほか、という具合に枚挙に暇がない。政府・厚労省、財務省は、自らの医療費抑制、社会保障切り捨てを守備よく成し遂げるために、階層間の対立と軋轢を生み出す宣伝と組織に血道をあげてきたといっても過言ではない。因みに、税制の面では、いわゆるクロヨンという、裏づけのない政府の宣伝が長らく中小零細業者を苦しめてきたことも我われは知っている。
なぜ共同戦線か。
つまり新自由主義的改革は、このように、日本社会のなかに亀裂をつくりだした。
その際の亀裂は何によって生じたのか。それを小森陽一が『理不尽社会に言葉の力を―ソノ一言オカシクナイデスカ?』で説いている。
小森は、新自由主義的改革がすすめられていく過程で駆使された言葉の一つひとつを取り出し、論理的な矛盾を衝く。
言葉は、私たちの周りに、どこにでもいる部長が、あるいは課長が、先輩が吐きつづけたものだ。
なかには「改革」に加担しているという意識はないのかもしれないが、何気なく使っているようなものもある。
逆に、この現実があるから、これほどまでの格差社会が形づくられてきたといえる。
たとえば、目次では、こんな言葉が並ぶ。
- お前の代わりはいくらでもいるんだよ
- 君はこの仕事向いてないんじゃない?
- 空気読めよ
- 派遣は責任とらなくていいからいいよな
しかし、格差社会は容赦は無用。社会人だけでなく、小中学生をも襲った。
周りに氾濫する言葉たち。言葉の力は大きいのだ。言葉は、ときには鋭利な凶器にも変わりうる力をもつ。
そこで、言葉の力が大きいのならば、異議を申し立てよう。ソノ一言オカシクナイデスカ? という具合に。こうして、これらに対置すべき言葉を小森は語っている。
他者の存在を認めるのならば、一読に値する。
われわれは、あらゆる制度やルールを外されて、自己責任ですべてをやることはできない。
言葉を操る生きものとしての人間は、まず自らが使用する言葉のシステムに内在する、制度やルールにしたがって自分を社会化し、他者との社会的なかかわりの中で生きていく
んだから。