ブログに何ができる…。


1995年は日本におけるインターネット元年という説があって、それ以来、仮にわれわれがネット環境にいなければ、それだけで仕事がちっとも進まないと多くの人が実感する時代になってしまった。そうした変化を日本社会の変容とよぶとすれば、その変容はわずか10年で形づくられたことになる。だが、別の言葉で表現すれば、その変容もたかだか10年余りの過程にすぎないのだろう。

ウェブ進化論』をものした梅田望夫と、気鋭の小説家・平野啓一郎の対談に興味をもった。もっと突っ込んでいうならば、私の関心は、さきにのべた社会の変容をどのように平野がとらえるのかにあって、そこをつまびらかにしたいという思いにとらわれたのだった。『ウェブ人間論 (新潮新書)』はその2人の対談を記したものだ。
そこで、このエントリーをふくめた「ブログに何ができるのか」に私の関心が集中するのだが、それはつまり、ブログでは何ができないのかを明らかにすることにほかならない。2人の対談はその理解を深めるのに大いに役立つ。
平野が、対談では「見解の相違が鮮明になることはあったし、議論がそれぞれのアイデンティティに触れるような場面では、緊張を孕むこともあった」(はじめに)と率直にのべるように、対談者2人の意見の相違があちこちで散見される。そこがむしろ面白い。

その象徴的な部分を一つあげておきたい。それは、ブログで何ができ、何ができないのかに大きくかかわっていると思うからだ。
まず平野はこのようにのべている。

独り語り型のブログって、他者の存在を切断した、一種の真空状態で紡ぎ出される言葉でしょう? 
リアル世界では、他者の思惑に翻弄されて、自分の言いたいことがうまくいえない、あるいは場の雰囲気で喋らされているようなところがある、だから、独りになったときに吐き出す言葉こそが本当の自分なんだっていうのは、分かるんですけど、正しくないように思うんです。やっぱり、ある人がどんな人かっていうのは、結局、他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている。誰もいない場所であれば、どんなことでも言えるけれど、そういう人間は、ネット上で一見言葉によって実在しているように見えて、本当はどこにも存在していないんでしょう。

この問題提起に、梅田はつぎのように応えているのだが、二人の意見に大きな差異を見出すのは容易だ。

梅田 そういう面はたしかにあるんだけれど、島宇宙化していっても、ネット上でのオープンソースが一つの例ですし、それから趣味の世界でも、深まっていく創造の喜びをネット上で追求できますよ。
平野 趣味の島宇宙的なコミュニティに属するというのは、僕は基本的に微笑ましいことだと思いますけど、そこで得られる同じ島宇宙の住人からの承認っていうのは、なんていうか、見て見ぬような感じだと思うんです。
同じ音楽が好きな人と会えば、……会っているとそこを突破口にして相手のもうちょっと深いところに手が届きそうな感触もありますけど、それがネット上のやりとりだけの場合はどうなのかな、と。そうして認められることに他者からの人格的な承認の幻想を託して、現実は結局何も変わらないまま放置されとぃるという状態が、他人にとって幸せなのかなと。
梅田 うーん。ネットとリアルをそこまで区別しなくてもいいと思うんだけれど……。じゃあたとえば、リアル世界の現実は何も変えないかもしれないけど、ネットの世界で補う、っていうのはどうですか。
・・・・・・
「リアルの世界って生きにくいな、こんなところでサバイブしていかなきゃいけないんだな、じゃあ仕方ないから生きるために知恵を身につけなくちゃ」と何とかやり過ごすことって、生きていくうえで重要なことなんじゃないのかな。
平野 今の世の中は、他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属していることの安住感というのは、その外側を存在させなくなってしまうんじゃないか。僕はやっぱり、現実が嫌な時には、改善する努力をすべきじゃないかと思いますけど。
梅田 努力して、自分に適した場所に移るということですよ。ネットの情報がそのきっかけになるということかもしれないでしょう。それはいけませんか。
平野 合わないから移る、というのはいいと思いますけど、変えるべき現状があって変えないというのはどうですか? これは、政治の問題まで含めてのことですが。

議論は交差していて、少しも交わってはいない。どこまでも空転している。
しかし、このやりとりの後で、梅田がつぎのように語っている。あまりに楽観的な、というのが私の感想なのだが。

「リアルの現状は改善する方向へ努力しなさい」というテーゼより、「今の環境が悪いんだったら、他の合う場所を探して、そちらへ移れ」という方が時代に合った哲学のような気がしています。

これは一見、まともな主張のように受け取れるが、「他の合う場所に移る」条件が等しく与えられている場合にこれは妥当する。が、現実には移動できる条件が一様ではなく、異なっており、それが問題なのではないか。平野はむしろそこに言及しているのではないか。だから現状はかえられなければならないのだろう。

ブログに何ができるのかという問題の設定はこの点にかかわる。それは、対談で明らかなように、「他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属」しないブログ世界をどうお互いにつくっていくか、ということに尽きる。それは、換言すれば、ともすればそうなりかねないブログの「島宇宙的な世界」と現実の社会との緊張関係をいかにお互いが保つかということだ。つまるところ、それは、現実社会の「他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている」(平野)のだけれど。