「政治家の息子とプロ野球の息子」。


と、一風変わったタイトル。実は、橘木俊詔氏の著書『格差社会―何が問題なのか (岩波新書)』のなかの小見出しをそのまま拝借した。
格差社会という言葉は知らぬ者がいないほど広がった。そして、「格差の何が悪い」といい放ったのが小泉純一郎だというのも、多くの人が知るところにちがいない。
先の本にこんなくだりがある。

象徴的に言えば、小泉首相の後を継ぐ自民党の総裁選挙において、2006年6月の段階で候補となっていた「麻垣康三太郎」と言われる5人の政治家(麻生太郎谷垣禎一福田康夫安倍晋三河野太郎)は、全員、親も国会議員です。親が政治家で子どもも政治家というのは、一つの階層固定化の典型例です。
もう一つ、政治家とはまったく違う職業の例を出してみましょう。プロ野球選手です。プロ野球の世界にも、多くはありませんが、父親がプロ野球選手で息子もプロ野球選手という例があります。代表的には、巨人の監督を務めた長嶋茂雄氏と、南海やヤクルト、阪神そして現在は楽天の監督を務めている野村克也氏がいます。彼らの息子はいずれもプロ野球選手となりました(長嶋一茂氏、野村克典氏)。野球ファンなら誰でも知っているように、父親はいずれも名選手、名監督でした。

その上で、橘木は、政治家とプロ野球選手を例として、階層の固定化について説いているのだ。階層の固定化とは、ようするに親の階層を子どもが受け継ぐということである。

政治家の息子とプロ野球の息子とを比べてみると、この2つには大きな違いがある。たとえば、長嶋一茂と野村克典はともに父親ほどに野球選手としての能力に恵まれてはいなかった。注目はされたが、選手としてそれほど活躍することがなかったことは、プロ野球のファンならだれもが知っている。注目をあびた一時期に比べれば、今日、一茂も克典もマスコミやファンにおいかけられることは極端に少なくなっただろう。つまり、野球選手の場合、親の地位が最初の段階で有利に働いたとしても、その後の地位は本人の能力と努力次第で決まるというわけだ。機会はその意味で均等には訪れず、結果は技量に応じて均等についてくるということか。

一方、政治家の場合はどうか。子どもが政治家になろうとすると、親が政治家であれば有利となる。親の後援者、人脈、地盤を引き継ぐ、二代目、三代目の政治家は少しも珍しくはない。橘木はこのようにいっている。

しかし、野球選手の場合と同じく、親が優秀な政治家であっても、子どもが優秀な政治家とは限りません。にもかかわらず、野球選手と違って、わかりやすい形でその能力を判断することは難しいのです。したがって、プロ野球選手の息子の場合のように、自然と淘汰されるということはありません。

いまや政治家の世襲(の是非)がどこでも語られているが、なるほど今日の閣僚リストをながめると、世襲政治家の多いことにあらためて気づかされる。橘木は、日本社会が現在、このような階層の固定化に向かいつつあるという。多くの職業でこの階層の固定化現象がみられることを説く橘木は、このまま格差を拡大させて、日本を階層固定化社会に導くことに警鐘を鳴らしている。橘木は、麻垣康三太郎をあげた。そして、「親が政治家という理由のみで、もし無能な政治家が誕生し、万が一その人が指導的な地位の政治家になったのであれば、国民にとって危機的な状況さえ引き起こす可能性もあ」るとも説いていた。

安倍晋三のこの1年間は、それを見事に映し出した物語だったということもできる。格差社会の進行がこんな形でのちのち国民にはねかえってくることも振り返ってみる必要がある。
橘木の懸念はほとんど現実のものになっている。