喪失の意識を奪うベンチとオブジェ


たとえば地下鉄のホームに設置されているベンチ。
ほとんど不必要だと思える肘掛けがついている。あるいはそれほど役にたたない(たっている人もいるかも)。4人の大人が座ることのできるほどの長さのベンチであれば、肘掛けはようするにベンチの全長を等分して3つ据え付けられている。もし肘掛けがなければ、大人はそこに楽に寝そべることができるはずである。人間工学的に考え抜かれたものといってしまえばそれまでなのだけれど、肘掛けが人間工学的によってのみ設置されているかどうかの話。
つまり、肘掛がなければ、そこに寝そべる人もいるだろうということだ。
同じような疑問をもつものに、公園の片隅のかなりのスペースにオブジェがあるとする。実際にあるところもある。こうしたオブジェはいったい何のためのものか。

地下街でもオブジェがとりつけられている。奇妙な突起物が地下街の路面からいくつも飛び出している。この突起物は、とりつけられる前までのかなりの空間をなくしてしまった。
その突起物は、空間を支配したのみならず、そこがホームレスたちの寝床として機能していたとすれば、あらかじめホームレスたちをその場所から排除してしまっているわけだ。通行人からみると、これらの場所は、どちらかといえば見えにくい、目立ちにくいところであって、だからホームレスたちはそこを利用してきたということでもあるのだろう。

だから、オブジェが奪うのは、その空間なのだが、上の例でそこで寝泊りするか、しないかのホームレスの選択(の機会)をあらかじめ奪ってしまう。気づかれないように。強制退去させるのとはわけがちがうが、同じ権力がこんなやり方で、選択するという一つの自由を奪うこともありうるということだ。その結果、(そこで)寝ることは実現されない。また、寝泊りするためには、寝泊りすれば何らかの制裁を受けるという規制を認識し、理解しておかなければならないし、規制の存在によって思いとどまることがあるのだが。つまるところ、オブジェの存在は、寝泊りをするという行為に先立って私たちの行為を制約する。それに気づくことなく私たちは支配される。
しかも、ホームレスでない大半の人たちにとっては、その制約は「当然のことながら」制約として受け止めることもなく、むしろ「歓迎」されるものとしてとらえられる。正しい規則を守ることと、そこから逸脱しないことのみが価値とされるだけでなくて、はみ出すことなど認めないと断言するだけで、一方でそこから逸脱することを選ぶ選択肢がなくてよいのか。
ようは、オブジェがあらかじめ奪うのは喪失の意識である。(そこで)寝泊まることができないのは、そもそも寝たいと思うからいけないのだ、寝るのをやめよう、こういうイメージを描くことができる。けれど、これではならないだろう。
寝させることもまた権力に求められるのではないか。その場合、私たちは、やはり寝させろと叫ぶのかな。