「悪魔のささやき」と格闘する。

ライブドア村上ファンドをめぐる一連の騒動、耐震偽装建築、防衛施設庁談合事件をはじめとする官僚と企業の癒着、“小泉劇場”と呼ばれた2005年衆院選での自民党の圧勝、ネットで知り合った赤の他人同士による集団自殺、引きこもりやニートの増加、子供たちを狙う犯罪や子供たち自身によるショッキングな事件の多発……今、世間を騒がせているさまざまな事件や現象を、悪魔のささやきという切り口で読み解いていくと、現代日本と私たち日本人が抱えている問題がクリアに見えてきます。(悪魔のささやき (集英社新書) 14頁)

この立場にたてば、著者・加賀乙彦がいうように、日本という国の未来、そして自分自身の幸福を考えるうえで、悪魔のささやきをいかに避けていくかということが、いまや非常に大きなテーマになってくる。
悪魔とはなにか。
加賀は、人間のふわふわとした意識を動かすもの、人を奇妙な方向へ誘い出すものを指している。そうであるなら、ふわふわとした意識ではなく、あるいは奇妙な方向に引きずり出されることのない意識をもつにはどうすればいいのか、という設問に私たちはいきつくだろう。この問いに加賀は答えている。
悪魔につけこまれない本物の「知」の育て方、いいかえると「視界を360度に広げ、より遠くを見はるかす」ということだが、著者によれば、「たとえ意図的な情報操作ではなかったとしても、人は誰しも誤りをおかすものです。その時点では、まだ見えていない事実もある。人間は弱く愚かなものであり、自分もまたその一人だということを常に念頭に置いておくこと、そして内なる偏見や自己防御というフィルターをはずし、さまざまな立場から語られた、それも自分と意見を異にする情報をより多く拾いあげ、できるだけ客観的に弁別し考察していくことが大事」ということになる。

加賀はまた、日本人はなぜ悪魔のささやきに弱いのかという問いに迫っていく。その精神構造に迫っている。彼があげるのは、侵略戦争に突入していく際の国家のマインド・コントロールスターリニズムに踊った日本の知識人などで、外部からのマインド・コントロールや注入される思想にたいしてほとんど憑かれたように同化していく日本人の分析を試みている。要するに、彼は、和を重んじ、個が育たない日本の精神構造を問うているのだ。

ポスト小泉、つまり安倍総理誕生の際の報道のされ方や、また最近の参院選報道、そして自民党総裁選のそれに、加賀の指摘を重ねあわせざるをえない。単にそれが演出された「出来レース」を扱っているからというだけでなく、たとえば安倍や福田を強く押し出すマスメディアからのあふれるほどの情報から正確に情報を選び取るのは、われわれにとっては至難の業ともいえる。
洪水のような情報と真実との間をどのように埋めていくか、これは現代にいきる我われに不可欠の術だろう。そうでなければ、たちまち悪魔のささやきに引き込まれてしまう。
日々流される情報がまさに悪魔のささやきなのである。

これはなかなかやっかいで困難な問題でもある。日本では、上記で引用した事例だけでなく、加賀はオウム真理教事件なども取り上げている。それはまた日本に限ったことではなく、かつてのナチスドイツを典型とするように欧米、諸外国でもみられることである。つまり、悪魔のささやきにさらされるのは人間だからであり、逆説的に人間だからそれを乗り越えていく可能性も開かれている。

こんな論脈によって加賀がいわば結論として説くのは、自分を主体に考え、「私」から出発するということだ。
雑誌やテレビやインターネットから得た情報も、誰かのアドバイスや指揮者とやらの意見も、流行も、昔からの習慣や伝統も、宗教も、占いも、お隣さんがどうしたこうしたも、そのまま鵜呑みにはしない。(同書198頁)
考える主体は常に「私」でなければならない。
その要諦は、加賀がいうように、視界を360度に広げ、より遠くを見はるかすこと、これに徹するということなのだろうが、たやすいことではない。 悪魔が自らのなかにあり、他者からは認識しえないものである以上、悪魔のささやきを乗り越えることは可能だろうが、悪魔との格闘を避けることはできない。格闘することで、より遠くを見はるかすことができるのだろう。