生きていてくれる可能性


生きていてくれさえすればいい


死の危険に脅かされているために「生物学的に強い子ども」でならなければならない社会と、とりあえず生き死にの心配がないので「生物学的に弱い子ども」でいても平気な社会を、内田樹氏は念頭に置いている。日本は後者に位置するというわけだ。
この論法でいけば、前者は生きるためには「生物学的に強い」ことを強いられる社会、後者は強いられない社会ということになる。けれど、いまの社会は「生物学的に強い」ことを強いられる社会だけでなく、それが強いられない社会でも、死の危険に脅かされている。氏のことばを借りれば、「記号レベルの出来事で現に毎日のように人間が死ぬ」ような日本なのだから。

どちらも、誰もが死に直面する可能性があるという点で同じで、その可能性は、氏のいう環境適応性や危機感知能力のちがいによって異なる。環境適応性や危機感知能力は生得のものがありえても、それだけではなくて、むしろ社会的につくられるものでもあるだろう。ようするに、その可能性は、たとえば貧困層の有する可能性にくらべると格段に富裕層のそれは小さいだろう。あえていえば、戦火の中にあっても、戦火を逃れる「能力」もまた、富裕か貧困かで異なるにちがいない。

だから、生物学的に強いか弱いかにかかわらず、死に直面する可能性を日本人ならば有するという意味で、安全とはいえない。たしかに、「生物学的に強い」ことが強いられないというかぎり―それとてあやしいが―では、「現代日本のような極度に安全な社会」とよぶのも可能かもしれないが、そんな断定よりも、私の関心は、「生きていてくれさえすればいい」と構えざるをえない現代日本から抜け出る道はあるのか、ないのかということなのだけど。