丸山眞男を苅部直はどう読んだか。


丸山眞男。これまでいろいろな意味で注目されてきた知識人であることは疑いようもない。その評伝『丸山眞男―リベラリストの肖像 (岩波新書)』(著:苅部直)を読んだ。
丸山はしばしば、自分とマルクシズムの関係について、マルクシズムの問題が重くのしかかっていたと回想している。その世界観への「コンプレックス」があったというのだ。この点について、この本では、「日本の近代という問題にとりくむ際に、そもそも講座派マルクス主義を踏み台として、思考を出発させたことに由来するのであった」と苅部はのべている。
丸山の表現を借りれば、丸山は「ムード左翼」であったというのだが、丸山は、マルクス主義の理論家・歴史家による『日本資本主義発達史講座』*1を読み、「目からウロコが落ちる思い」がしたというほどであった。

「講座派」は、農村部の地主・小作関係にあらわれる封建的な生産様式がみられる一方で、都市部における資本主義的な生産関係があり、この2つが不均衡な形で共存していることに日本の資本主義の特殊性を見出した。このような「いびつな経済構造」の上に、独自な絶対主義体制としての、「天皇制」の政治支配機構が成り立った歴史上の過程を明らかにしようとしたのだった。
丸山は、この「講座派理論」を前にして、「経済・政治・文化がたがいに連関する全体構造をとらえる点で、また、さまざまな思想に潜む政治イデオロギーをえぐりだす視覚を指し示す点で」、マルクシズムの近代日本の思想に与えた大きな衝撃を強調したのだ。

こうした思想的「洗礼」をうけつつも、丸山は戦後、マルクシズムのなかに「人間の営みにおける『政治』の固有性」(苅部)が欠落していることをみて、きびしくマルクス主義を批判するようになった。のちに「ぼくの精神史は、方法的にはマルクス主義との格闘の歴史だし、対象的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だった」とのべたほどだ。
マルクス主義と格闘しながら、丸山が晩年までこだわった人間生活における「型」「形式」。しかし、激しく動きゆく時代に過敏に反応する一方で、かつてつかもうとした日本の全体構造は丸山にみえたのか。格闘のなかで、丸山のコンプレックスは解消したのか。

評伝では、日本の全体構造をとらえようと格闘する姿とともに、シニカルに、またニヒリスティックに、相対的にふるまう丸山の姿をも私はかいまみてしまうのだ。

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苅部直丸山眞男』(岩波新書

*「[花・髪切と思考の浮游空間:title=花・髪切と思考の浮游空間]」のエントリーを一部改変

*1:『日本資本主義発達史講座』は、日本における資本主義の性格をめぐる論争のなかでの、野呂栄太郎や山田盛太郎、服部史総など「講座派」と呼ばれる学者たちによる仕事。