集団極化とメディア


group polarization は、集団極化とも集団分極化*1ともよばれる。長谷部恭男は集団偏向*2 とよんでいるが、同様の意見をもっている者が論議すると、その意見がいっそう強調されるようになるという現象。

はてなダイアリー・キーワードでは……

集団討議の結果、討議前の個人の意見よりも先鋭化したかたちで集団決定がなされることをさす。このうち、討議前よりもリスク愛好的な決定がなされる場合はリスキー・シフト、リスク回避的な決定がなされる場合はコーシャス・シフト?という。一般的には、リスク愛好的な人々が討議した場合はいっそうリスク愛好的に、リスク回避的な人々が討議した場合はいっそうリスク回避的になる。

なお、こうした現象は、集団決定だけでなく社会的態度一般についても確認されている。この場合、個人の元々の態度が集団討議によっていっそう強化されることになる。例としては、自国の政府指導者に対して好意的な人々が討議するといっそう好意的になる例や、アメリカに対して非好意的な人々が討議するといっそう非好意的になる例など。

と、記されている。

インターネット上の討論グループを、キャス・サスティンがその例として指摘する。そう誰もが思い起こせるだろう。
インターネットを直接民主主義(の場)と受け取るのはあまりに素朴だが、同じ意見がいいたいことをいって言葉を競い、いよいよ過激になり、そして、少しでも異なる意見は排除する。先がしだいに尖がってしまう。しまいには、相互に分裂してしまうだろう。

そこで、メディアは情報を伝えてくれるものだと考えがちだが、不必要な情報を伝えないのがメディアだともいえる。情報を選別し、不要な情報を排除するのがメディアなのである。そうであるし、だから受け取る側には、選別する眼が要る。

裏返しにいえば、メディアが情報を選別し、不要な情報を排除しえているのか、問われなければならないということだ。
今日、ちょうど形式的にはディスカッション・グループと同じようにメディアが集団極化に役割を果たしている。
それに耐えうる選択眼が要るのだろう。