国民投票法案と二大政党制


高村薫氏が「安倍政権誕生から7カ月」というタイトルで、その政権を分析している(西日本新聞5・10)。私は氏の主張にほとんど同意する。
発足当初から閣僚や税調会長の辞任がつづき、政権を支える肝心の屋台骨が危ういのが、いわば安倍政権の常態だった。しかし、こんな政権のもろさをふくみながら、政権がその後「強権的」な議会運営でつぎつぎに法案、しかも我われが到底首肯できないような法案がとおっているのはなぜか。
この点に、氏はふれている。

与党の絶対多数と、野党の沈滞と、有権者の無関心のおかげで、この政権はまま思い通りの方針と法案を通すことができるのであり、有権者には不評だった郵政造反組の一部復党を早々と決め、いつの間にか防衛庁の省への昇格を果たした。歴代のどの政権も果たせなかった教育基本法改正案を軽々と強行採決で成立させ、ついでに予算の年度内成立も果たし、ついに国民投票法案も衆院を通過するに至った。これだけでも、戦後史に残るのは間違いない政権ではある。

この構図こそ、もろさを抱えるいまの安倍政権を支えるものだろう。
ようするに、氏の言葉を再びあげれば、与党の絶対多数と、野党の沈滞と、有権者の無関心、なのだ。
私の理解では、別の言い方をすれば、二大政党制の深刻さだ。
高村氏があげた絶対多数と、野党の沈滞と、有権者の無関心の3つそれぞれが連結して構造化しています。直近の国民投票法の事態はそれをよく表している。もともと民主党改憲派なのだから、自民、公明両党とその表現のちがいはあっても、志向するものは一つだといえる。自民党改憲案が発表されて以来、自民、民主の密室協議がつづいてきた。改憲という日本の将来の帰趨を決める重要課題で自民、民主という2つの政党が議論のテーブルについてきた事実を決して無視することはできない。二大政党制の本質がここにあると私は考えている。権力維持のためのしくみ。表れ方はちがっても自民、民主は権力をもつものにとっては権力の維持装置を動かす「コマ」にすぎない。
むろん高村氏はここまで言及してはいない。だが、氏のいう与党の絶対多数、野党の沈滞が示す本質は以上の内容と一致する。


この二大政党制という枠組みは、国民の政治的関心にも陰を落としている。
小泉政権下の9・11選挙もふりかえってみればそうだ。そして都知事選においてもそうだった。
ようするにメディアもつかった、自民VS民主という構図がつくられた。ということは、そこからはみ出るものは排除されるということだろう。権力側からすれば、幸いなことに、地方政治においては共産党をすでに除いたオール与党の政治がほとんどなのだから。この構図は都知事選で明らかなとおり、共産党の排除を意味している。小選挙区制と結合した二大政党制は少数派の排除に結びついてきたといえるだろう。


そこで、民主党の腰くだけによって、国民投票法改憲手続き法案の成立がほぼ筋道として見えてきた今、言説上では、従来の改憲派とは多少ことなる改憲合理化論が登場してきている。そして、ブログ上でも、これまで沈黙していたと私には思える「市民派ブロガー」たちのなかで、「護憲派の限界」に言及しているものもある。
おかしなことだ。改憲派は国会で重要論点についての質問に答えることすらついにできなかった。また護憲派の「限界」は今にはじまったことではないだろうから、なぜ、この間の国民投票法案=改憲投票法案の運動のなかで、同じく9条を守る立場であるのならその指摘ができないのか。たとえば九条の会などの草の根の「護憲運動」は常に前進してきたのではないのか。最近の国民世論で示されている9条への国民の思いは、彼らの運動と無縁ではないだろうと思う。口をつぐんできたのはいったいだれか。

問題はつぎのところにある。改憲を党是とする自民党はともかく、国民のなかで改憲の声が圧倒的でもない今、なぜ改憲なのか。それは、直接的には改憲派が圧倒的な国会の議席配置が条件をつくったといえる。そして安倍政権は改憲をめざす内閣として登場してきたのだ。高村氏もつぎのように語っている。

いまのところ「美しい国」の姿ではっきりしているのは、憲法改正の道だけだと言えまいか。


しかし、これとて考えてみると、国民の少なくない人びとが9条の意義をみいだしている現実と、たとえば改憲派が96%を占める国会の議席配置との乖離は否定しがたい。高村氏のいう政権の「生活者の視点との乖離」とはこのこととおそらく無縁ではないだろう。ここに、私は今日の日本の政治をみえなくする最大の問題が潜んでいる要因があると思っている。すくなくとも与党と民主党以外に国民の目を奪われないようにするしくみだ。改憲への道は、二大政党制のもとだからこそ進んだといえる。
これを打ち破るのは並大抵ではない。けれど、今回の改憲手続き法案の審議の過程は、国民主権とは相対立する。そして今の日本の歩む方向が国際世論と対立しいわば孤立していることもまた明らかだろう。
国民の多数は9条の意義を認めている。ここにこそ国民主権が大いに発揮される場面がくることが大いに期待できるのではないだろうか。



◇「花・髪切と思考の浮游空間」の記事の表記を一部あらため再掲した。