政治のなかの「今・ここ主義」


新著『日本文化における時間と空間』で加藤周一は、「今=ここに生きる」という日本的特徴について詳細にふれている。この特徴に加藤が言及するのはむろん今回がはじめてではない。加藤の指摘にふれるたびに、これは日本人のものの考え方を実によくいいあてているとこれまで思ってきた。繰り返される事実がこれを支持するのである。
まさに、日本人は今、ここを重視する。考えがすぐにそこにむかう。
「今、ここに生きる」という考え方を、仮に「今・ここ主義」とよんでおく。
私がこのエントリーでふれたいのは、選挙のたびに今ここ主義が繰り返されるということだ。そして、それが結局は今の国会の議席配置を決めて、ある意味で政治状況を下から支えているということを意味している。
これを、あらためて強く実感したのが、都知事選をめぐる言論状況だった。今、ここに、強く関心が集中する。これは、全体の流れの中の現在としてとらえるのではなく、現在から全体をみるということでもある。しかし、はたして全体がみえているのかどうか、それはきわめて疑わしいと率直に思う。この考え方の典型を、私は山口二郎氏にみる。別のエントリーで、氏の破綻についてふれたので、これ以上の言及は避けるが、氏は、端的にいえば、石原氏を引きずりおろすために浅野氏を無条件で応援するよう共産党、あるいは同党支持者に求めたのだった。しかしながら、これは単に、ひとり共産党あるいは同党支持者に向けられたというのではなく、少数者を排除するというけっして看過できない思想性をもつと私は考えてきた。だから強くこれに反発し、一連のエントリーで私の考えをのべてきた。


山口氏だけではない。政治ブログのなかの、ことに左派あるいは市民派とよばれているブロガーたちが、加藤がいうように日本人のもののとらえ方として共通する今ここ主義に浸りきっている。
浅野氏出馬の経過を少しながめてみれば分かるように、民主党の支持基盤をあてにしていたことは明らかだ。ただ、「無党派層」をひきつけるための、もったいぶった立ち居振る舞いをせざるを得なかったにすぎない。そして、何よりも「無党派」として浅野氏かつぎに回った連中が、「今・ここ主義」のなかにある。


左派・市民派ブロガーたちの多くはまた、小泉9・11選挙で自民党大勝と、小泉自民党になびいていった「無党派」の投票行動を苦々しく思っていたのも共通している。
その彼らが今度は、東京都知事選で同じように時流に乗ったということにすぎないだろう。しょせん彼らも日本的思考方法から免れてはいないのである。政治的には、彼らもまた二大政党制のなかにどっぷりとつかっている。政治のなかでは「今・ここ主義」は、だから自民党ではない民主党への期待、そして石原でない浅野への期待にむかったのであった。
さあ、参院選で彼らはどうふるまうのだろうか。