カイカクを疑ってかかれ


国会法といっても、私たち国民にとっては正直なかなか分かりにくいものです。
数日前のエントリーで国会法改正をとりあげました(参照)。つまり、民主党は議員の議案提案を認めず法案の提出は内閣に限るという方向で考えていることについての記事です。エントリーで紹介したように、これは日本国憲法にてらすと問題がありそう。浦部氏はむしろ今回の民主党の主張は憲法に反する性格をもっていることを指摘しているのでした。

民主党がこれまでの国会を官僚支配などと指摘し、政権について以後、「政治主導」の路線が強調されている。その結果はどうなったのか。
たとえば議員立法。議員の法案提出権は当然認められるが内閣の法案提出権は議論の余地あり、という憲法の原則を浦部法穂氏は指摘していて、そうすると、今回の議員立法を禁止するという民主党の方針は、憲法とはまったく逆の方向を向いていることになる。政治主導を、極端に単純化し、内閣にのみ法案提出権を認めるというのだから。

そもそも、政治主導か官僚主導かという問い方は、これまでの自民党政治の問題の本質を覆い隠しているのではないか。
官僚が、勝手に主導的に政策をつくってきたのではない。財界の意向を受けて政治が政策づくりを官僚に指示し、任せてきたということだろう。最近までの経済財政諮問会議は、その意見交換の場でもあったはずだ。官僚は忠実にそれにしたがってきたのだ。

国会改革という言葉がむしろメディアでは前面に出ているため、したがって、何かしら悪い点をあらため改善していくかのように素直に受け止めると読めてしまうようなメディアの宣伝なのですが、そのまま読み飛ばすのではなく、透かして、背後にあるものを読み取る努力が求められているように私には思えます。上にのべたように、政治主導という言葉だけが突出すると、法案を議員が提出する意味すらどこかに吹き飛んでしまう、むしろそのように誘導しているとさえ思えるのです。今一度、浦部氏の指摘する「議員の法案提出権は当然認められるが内閣の法案提出権は議論の余地あり」という憲法の原則に立ち返る必要があるようです。

その上で、小沢一郎が今度は、国会改革と銘打って、委員会の定数削減を言い出しているようで、これをどうみればよいのか考えなければならないようです。議員提案は、国会と有権者・国民の距離感をそのまま反映する一面を当然、もっています。これ自体、正負両面あるという意見はあるにしても。今回、小沢がいっているのは、委員会の定数削減です。その提案の理由として、彼があげているのは、国会議員中心の国会にするということです。想定できるのは、これによって少数会派は排除される、されるだろうということ、発言の機会が制限されるだろうということです。
しかも、小沢は、副大臣政務官の委員会所属を原則義務づけるようですから、そうなると、政府の政策関与を強化する方向をめざしているのだろうと想像がつくわけですね。ですから極端にいえば、委員会審議は、政府提案の法案を追認するに等しいものになりうる。その可能性はきわめて強いのではないか、こう私は思うのです。
ここまでくれば、国会とはいったい何なのか。政府が提案し、それを委員会で追認していく。国民・有権者の要求はこの過程でどんな具合に反映されるのか、それを考えないといけないのでしょう。民主党(政権)のいう政治主導とは、政府が強大な実権を握り、国会本来の役割を極端に縮小・限定することを意味しているようです。


そこで、話を少し変えます。
首相の鳩山由紀夫氏が「新憲法試案」というものを2005年に発表したことをご存知の方がいらしゃるかもしれません。また、民主党は同年、「憲法提言」というものを明らかにしています。これらが、今日、民主党の政策のバックボーンにあると考えて過言ではないと思います。ここでは、以上にのべた政府の権限強化とのかかわりで、鳩山氏が「新憲法試案」のなかでどのように位置づけてきたのか、それを振り返ってみたいと思います。
ある意味でストレートに鳩山氏は試案第96条で、「国の行政権は、内閣総理大臣に属する」とのべています。現行憲法が「行政権は内閣に属する」(同65条)とのべていることと比較してみてください。つまり氏がめざそうとしているのは、大統領的首相、絶対的な権力が集中する首相ということです。かつて、レーガンサッチャーと同時期に首相を務めた中曽根康弘氏が大統領的な首相をめざしてきたこともよく知られているのでしょうが、鳩山氏は、それを憲法の中に明文化しようとしている点で、従来を超える立場を明確にしているわけですから、注意しておかなければなりません。

鳩山試案第98条は、

内閣総理大臣は、行政権を行使するため内閣を組織し、その構成員たる国務大臣及び内閣総理大臣を補佐するために法律で定められた官吏を任免する権限を有する

としています。
これを読めば、ちょうど今日の米国政府を想像することができる。米大統領を補佐する補佐官が何人もいるのが米国です。民主党政権ができてのち、私たちの前に国家戦略局というものが初めて登場したわけですが、その背景には鳩山試案があって、それが具体化されていると考えなければならないでしょう。あらためて強調すると、首相の権限強化とともにそれを束ねる特別の補佐官を置き、「政治主導」のたとえば予算骨格などをつくっていくというものです。端的にいえば、これは、行政の効率化とともに、独裁制にも連結する性格をもつ体制づくりだということでしょう。
したがって、別のことばで表現すると、国民の意思はできるだけ反映せずに上からの強行を恒常的に可能にする装置だともいえるのではないでしょうか。

かつて、ナポレオン3世やヒトラーは人民を扇動し政策を強行するという手法を採ったものです。この際、用いられたのが人民投票(plebiscite)でしたが、鳩山試案106条にまさに同様の規定をしているのは注目に値するでしょう。試案ではこうのべているのです。

内閣総理大臣は、特に必要と認めるときには、法律案又は条約の締結の承認について、その議決の前に国民投票に付することができる。ただし、予算及び租税に関する法律案については国民投票に付することはできない

と。

感情的に訴え、国民を感情的に組織した例を私たちは知らないわけではありません。最近の出来事でした。小泉純一郎は、参議院郵政民営化法案が否決されると、とたんに衆院を解散、このとき彼がとったのは民営化賛成か反対か、それだけを主張し、民営化とは何かを国民が吟味できないまま、権力の「正当性」が選挙結果に映し出されたのでした。鳩山氏が、そうした選択肢を憲法で明文化し規定しようとしていることを見逃すわけにはいきません。


民主党が政権をとって以降の、国会改革の名で提案されているものの背景には、以上のように無視するわけにはいかないものがあります。そもそも、国会とは、国民の負託にこたえ、国民のための審議をできるものでなくてはならないでしょう。そのためには、政府・行政にたいする国会の監視機能を強化することです。その具体化の一つが、議員立法などの立法機能を強めることではないでしょうか。
国会が国権の最高機関としての機能を発揮できる方向で、どのように改革できるのが論じられなければならないはずなのに、民主党政権の考える方向はどうもそれとは逆の方向をむいている、こう指摘せざるをえないのです。
そもそもカイカクという言葉自体を疑わざるをえません。