政治主導か官僚主導かという問いが覆い隠すもの


毎日の社説を借りれば、政治主導と言う言葉は以下のように使われている。

経済運営を「政治主導」で行えるかどうかの試金石が、09年度補正予算の中から凍結するものを洗い出す作業だった。しかし、各省庁の自己申告はこれまでのところ目標に届いておらず、2兆円程度にとどまった模様だ。省益優先の考えから抜け出せず、国民生活の足を引っ張るような姿勢は言語道断である。

この社説は、補正予算見直しに対して官僚の抵抗があってはならず、政治が主導権を握って断行せよと主張しているわけだ。
民主党がこれまでの国会を官僚支配などと指摘し、政権奪取後、「政治主導」の路線が強調されている。その結果はどうなったのか。
たとえば議員立法。議員の法案提出権は当然認められるが内閣の法案提出権は議論の余地あり、という憲法の原則を浦部法穂氏は指摘していて、そうすると、今回の議員立法を禁止するという民主党の方針は、憲法とはまったく逆の方向を向いていることになる。政治主導を、極端に単純化し、内閣にのみ法案提出権を認めるというのだから。

そもそも、政治主導か官僚主導かという問い方は、これまでの自民党政治の問題の本質を覆い隠しているのではないか。
官僚が、勝手に主導的に政策をつくってきたのではない。財界の意向を受けて政治が政策づくりを官僚に指示し、任せてきたということだろう。最近までの経済財政諮問会議は、その意見交換の場でもあったはずだ。官僚は忠実にそれにしたがってきたのだ。

だから、政治主導か官僚主導かという問いは、自民党の政治のあり方を批判しているのではなく免罪しているし、この場合の「政治主導」という言葉が財界が主導する政治に対抗するものだということももちろん意味しない。

国民有権者に痛みが押し付けられたのは、財界主導の政治が追求されたからだ。