加藤周一「語りおくこといくつか」− 法解釈と言葉の運用


文章の質という点で森鴎外石川淳を一つの線で私はとらえます。
加藤周一をその線分の延長上に位置づけてもおかしくはないと考えるのですが、やはり少し違うようにも思えます。
明晰な文章で三者は相通じ、世界のとらえ方で微妙に異なる。結局、唯物論的思考を研ぎ澄ましたのが加藤ということでしょうか。
その加藤の死後、出版された『語りおくこといくつか (加藤周一講演集)』という本を今、読んでいます。
タイトルは、この本の出版の計画時点ですでに自らの死期を察していたことを推測させますが、収められている文章のいずれもが加藤そのもの、その文章をとおして加藤は今も生きているという印象を強く受けました。

そのうちいくつかをあえてあげてみます。

倫理は法の内面化です。あるいは倫理を外面化したものが法律だと言えるでしょう。その2つのものは互いに関係している。純粋に倫理だけの、そういう社会は現実にないけれど、あってもうまくいかないだろうと思います。やはり法的な、客観的な、外面的な規則が必要になります。他方、外面的な規則だけでは必ず破る人がいるわけだから、どうしても倫理と法の両方が必要だということですね。根本的には。(22−23頁)

私のつきあいの範囲では、美しいという言葉を今なお悪い意味じゃなく、いい意味で使ってる人は、芸術家でも、画家でもない、数学者です。数学者は使う。あるいは、数学的な自然科学、例えば物理学者です。古典熱力学の体系は、あれは「優美」(elegannto)だ、と言います。それは美しいという。あるいは数学者は、問題の解き方が三つある、どのほうほうでも解ける、しかし、三つの解決法の中で、一番美しいのはこれだからこれを採りましょう、と言います。
その時は美しいという言葉を使います。美しいという言葉は、二〇世紀以降はむしろ数学者にまかせた方がいいのではないかと思います。数学者は、美しいを定義しろと迫れば多分「簡単」と答えるでしょう。複雑な解決法よりも、簡単・単純な方が美しい、ということです。

いずれも「文学の効用」という文章からの引用です。


明晰とは、必ずしも白か黒かを迫るような短絡的な態度を意味するものではありません。いわゆる小泉構造改革のもとで、二者択一を即座に求めるような風潮が横行しました。人間という複雑な組織、生命体とその人間が構成する社会の、さらに輪をかけた複雑さは、本来、こうした黒白を、あるいは正負の返答をただちに求めるという態度とは相容れない、あるいはそもそも拒絶するというのが実はただしいのかもしれません。即答を求め、それを競わせるのが、嵐のように世界中を襲った新自由主義的「態度」だったといえるのでしょう。その傾向を強めれば強めるほど、そこから「落伍」する者が増えるというしくみがてきてしまった。日本でいわれつづけてきたニートとかフリーターとかは、この現象の一端を表してきたといってよいのではないでしょうか。

少し回り道をしましたが、加藤の明晰さは、そうであるから逆説的に、現実世界での柔軟性を生み出しうる。たとえば、日本語にたいする理解。
日本語は曖昧という流布した見解があります。それに、加藤は見事に反論しています。たとえば、日本語には主語がないという意見について、加藤はつぎのようにのべています。

日本語の性質としては、ある条件のもとでは主語を省くことができますね。日本語だけじゃなく、省くことができる言葉はたくさんある。しかし、はぶかないこともできるわけです。だから日本語の性質として「日本語には主語がない」というのは、まったくナンセンスなんで、それはまちがっている。そうじゃなく、日本語は文法上主語を省くこともできるし、省かないこともできる。実際に省くことが多いかどうかというのは、日本語の性質だけではないのであって、社会的習慣の問題です。用法の問題です。ですから、それをはっきり区別する必要がある。言葉自体がもっている性質と、それを使う時の習慣、用法の特徴という二つのことは、関係なくはないけれども、概念上区別すべき問題だと思います。(「日本語を考える」52頁)

明快です。加藤の明晰は、曖昧だという、いわば紋切り型の批判、皮相な見方にたいしては、逆にそれらの批判の対象である、その「曖昧さ」をも許容する寛容な態度に結びついています。
そして、日本語の特徴についてのべた加藤の話は、日本国の法解釈の問題に及ぶのです。
日本国憲法のいう戦力には、自衛のための戦力は含まないという最高裁の判決について。

「自衛のための戦力は戦力に含まれない」というのは、「四本足のネコはネコに含まれない」というのと同じです。私の知識の範囲では、「自衛のためでない戦力」というのは存在しない。「四本足でないネコ」が存在しないのと同じです。どこの国の政府が、自国の軍隊が自衛のためでないと言ったでしょうか?

今現在も日本国の解釈が問われています。核密約問題です。
政府は、事前協議がないのだから、持ち込みはないという理屈をのべています。けれども、持ち込みをどのように扱うかについて討論記録という裏の合意が存在する。持ち込みは事前協議という形で決まるのはなく、討論記録で明らかなように合意済みのものにほかなりません。一方にはOK、他方には事前協議という担保があるというような、二重契約ですね、まるで。

加藤ならばこの事態をどのように表現するのでしょうか。