9・11または日本の政治


あの9・11からもう8年が経ちました。
あのとき米国は、米国国民が情報の国家管理にすべからく寛容になり、同国内の亀裂、国民の間の相互不信は極まった状況だったと思います。テロとのたたかい、これは大なり小なりあると思われる米国民の「強いアメリカ」志向とまったくマッチするものではなかったでしょうか。それを強調し、圧倒的な支持を得たのがジョージ・W・ブッシュでした。なにしろオバマをも上回る、過去最高の支持率でしたからね。
しかし、彼もその後、イラク戦争の口実としてきた大量破壊兵器といううたい文句がまったくの嘘であったことが知られるなど、しだいに人気は下降線を辿った。このブッシュは、(大統領の)資質という点ではとくに彼の話すアメリカ語についてしばしば話題になったものですが、もう数日でその職を辞すことになるわが日本国の現首相の日本語、とくに漢字表記に関する知識についてニュースが飛び交う今日の事態ときわめて相似することが、面白いところでもあります。資質に関することだけでなく、国民から末期はまさにそうスカンを食らう羽目になって辞めていくという経過もそっくりです。

このブッシュと同様に、ブッシュをその座から引きずり降ろしたオバマもまた、熱狂の中で大統領に就任しました。そのとき、彼はchangeと訴え、人々の関心を一手に引き受けたのです。米国が変わる。なにやら、この海のむこうの1年もたたない前の出来事が、海を渡って再現されたかのような状況に今、この日本国はあるのではないでしょうか。
いくら日本と米国が同盟関係にあるからといって、政治のありよう、より正確にいえば両国国民の意識状況までこれほど酷似しなくてもよさそうなのにと、あらためて今年の9・11を通り越したきょう、思った次第です。
私は強いアメリカが米国国民の気分感情をくすぐり、イラク戦争、テロとのたたかいへの圧倒的な支持をあのとき形成してきたことを思い、それが今の日本国の状況に合い通じるようにも思え、そこにある種の危険な側面を感じてきました。その思いが、この間の一連のエントリーに反映しているように自分では思うわけです。

圧倒的な支持を得たブッシュの後を引き受けたオバマも今また支持率低迷のようです。彼の売りであった無保険をなくすという施策も、いまや日本の皆保険となまったく異なり、似て非なるものであることが次第に明らかにされています。無保険者をなくすという表面だけをながめれば前進のように理解される政策も、日本とちがってメディケアとメディケイド以外には公的保険が基本的になく、私的保険で成り立つアメリカでは、むしろ私的保険資本の市場を拡大することにつながっているととらえることができるわけです。こうしたしかけがばれてしまえば、オバマもこの限りで悪くいえば資本の走狗にもなりうるのです。オバマの「改革」もそれが米国国民の生活ぶりに反映され、実感とならない限り、支持を失う方向にベクトルが向かうのは目にみえています。オバマのいったチェンジとはいったい何ものなのでしょうか。

この米国の政治的構図が、外形的にはこの日本国にも押し寄せ、しかも当の政権をとった民主党がまるで悪乗りのようにオバマ然として、あるいは嬉々としてチェンジを叫んでいたのを私は振り返るのです。民主党の議員たちだけでなく、小さな世界ながら、このブログ界でカウンドダウンを叫び、世界がかわるかのような言説がふりまかれる事態は、海を隔てた米国のかつての熱狂を冷ややかに笑うことすらできないものではないでしょうか。

こうした熱狂をもたらす要因の一つが、米国のメディアコントロールであり、日本のメディアの資本に根本を握られたジャーナリズムの衰退を指摘しなければならないでしょう。すでに米国では、メディアがいくつかの巨大資本に握られ、寡占化のもとでまさに情報管理がすすみ、9・11以後の事態はこれをいっそう加速させ、個人情報も国家が手中にし、自由に扱える状況がつくられた、まさに愛国法に示されるとおり。
今日の日本もそれほどかわりないでしょう。選挙戦は、メディアによってコントロールされ、戦前の予想民主300議席が現実のものになるのですから。その結果をもたらすために資本の側がいったいどれだけの時間と金を使い、情報を出し入れし、視聴者の時間を奪うだけでなく、心も奪っていったことか。事態はほとんどかわらないのです。

オバマを支持し、彼を大統領にした熱心な支持者たちは今、Change!
Yes,we can.というカッコいいスローガンをトーンダウンさせ、「しっかり見守ろう」、そして今は「約束を果たさせよう」とネットでよびかけているのですから。この変化もなんとも見事なものです。はたして、この変化もまた、日本国に訪れるのでしょうか。
私は、とくに都議選後、民主党は矛盾を深めるだろうといってきました。同時に総選挙後の民主党の態度、対応の変化にも注目してきました。この2つは別の表現ですが、同じことを意味しているように思えます。対応の変化、国民サイドからみて前進と思える同党の対応そのものが、矛盾を抱え込むことになるだろうというわけです。

今は、しっかり民主党の態度に着目し、米国オバマ支持者の対応の変化を少しばかり日本国では早めて、同党に約束を果たせと迫ることがとくに重要だと私には思えます。
こうした国民・有権者の声や行動にどれだけ耳を傾け、あるいは受け止められるかどうか、それが民主党には問われている。耳を傾け、あるいは受け止めるという対応そのものが、結果的には、いくつもの潮流が併存する同党にとっては矛盾を深める契機ともなるのですが。
その矛盾が昔の言葉でいえば止揚され、はじめて日本国の政治は一段階前にすすむような気がしてなりません。
止揚されて、民主党がどのような形に今後なるのかどうかとは関係なく。