定数削減論の欺瞞


世襲世襲と議論がそこに向かっている一方で、議員定数削減とからめてこんな議論がふって沸いてきました。世襲の問題では、自民党も、民主党もおそらくそれぞれが一本化できる条件でさえ、見出すのがなかなか困難なように思えます。つまり、両党にとって、世襲解消は、世間にある批判にたいする体面を整える程度の課題なのかもしれません。結局、私たちの関心がそこに集中すればするほど、選挙制度を改変しながら、政権の保持を図ったり、政権与党あるいは交代し政権につこうとする政党にとって議席獲得が有利なように制度を変えてしまおうとする、本命の強力な意思が働いていることを見失いがちです。
現在の局面はこんな状況にあるのではないでしょうか。
自民党の菅選挙対策副委員長が議員定数削減に言及しました(参照)。
ただ、言い出しているのは彼だけではありません。今月中には結論を出すといわれている、武部勤がキャップの自民党の党改革実行本部。関連して、太田誠一メーデーの日、こう語っています。

「世襲」より、議員定数の削減と定年制が必要です

世襲よりも定年制と持論をのべた上で、議員定数の削減を主張しています。しかも具体的に。どうやら太田ののべる議員数あたりが先の改革実行本部がとりまとめる水準なのでしょう。
議員定数を減らす検討が自民党で始まっています。私の提案は、現在の衆議院議員定数480人を150人にすることです。
国民から見て、一人ひとりの政治家がなにを考えているか、どのように行動しているか、その活動ぶりが十分に分からないわけです。ほとんどの議員は多数の中に紛れ込み顔が見えない。そして分からないうちに任期が終わってしまいます。
なんのために選挙で選んだのか、わからない。そうであれば選挙をするに値しなかったということではないでしょうか。
すべての議員の活動が国民に分かるように議員の数を減らすことが必要だと思っています。数を絞って150人程度にすれば、自分たちが苦労して選挙で出した人がどういう活動をしているかが常に明らかになり、判断しやすいと思います。

金権腐敗に手を染める議員、資質が問われる議員が連続する国会の実態もあって、一般的に議員の数を減らせという意見をもつ人は少なくないようですが、それだから議員定数を減らすのが当然だといわれると私は賛成できません。しかも、自民党が考えているのは、どのように定数を減らそうとしているのかという点で看過できるものではない。ようは、比例部分を削減しようとしているのですから。
私が反対するのは、比例部分というのは現在の制度のなかで、あえてこんな言い方をしますが、相対的に国民の意思を反映できる部分だからです。つまり、小選挙区のウエイトを今以上に高めようというわけです。だから、今でさえ、たかだか30%政党が今、現在のように3分の2以上を占めることが可能なわけで、国民全体の支持率が低くても議席の多数を占める条件をさらに広げようとする魂胆なのです。いわゆる民意と議席配分が大きく食い違うことになる。
小選挙区という選挙制度は、大政党をさらに大きくし、小数政党を排除しようとするものです。比例部分をなくそうとする意図は、反民主主義的でとよんで差し支えないでしょう。今、定数削減が強調されているのは、自民党の支持率低下が一つの潮流となって久しいのですが、3期にわたり国民の信を問うことすらできない、政権政党のゆきづまりのなかにあって、いわば「起死回生」を図るための策略です。

ところが、この自民党と政権を争うはずの民主党もまた議員定数に賛成の立場のようです。これまでもマニフェストで削減案を堂々と掲げてきたのですから。
昨日のエントリーでものべましたが、両党のちがいとは以上のように、せいぜい「改革」の程度を争うくらいのものにすぎません。選挙制度としては国民の意識と大きくかけ離れる議席配置も可能な小選挙区制度でも同じ態度。ムダ遣いを口にすれば、きまって議員定数削減を争っている両党ですが、その削減の中身が反民主主義的な点でも一致するのですから、ちがいの強調は、共通点の存在を無視することにつながっていて、結局のところ、欠いてはならない視点を欠落させることになっているのでしょう。
議員定数削減の欺瞞性を強く指摘したいのです。