鳩山、岡田の代表選出馬で、何もかわらない。。


小沢辞任のニュースが覚めやらないのに、メディアはもう代表選に有権者の関心をむけようと必死です。鳩山か岡田か、いずれが仮に民主党代表になっても、そのちがいが有権者にどれほどの意味をもつものなのでしょうか。疑問ですね。だって、小沢氏が辞任に追い込まれた要因について、それを抉り出し、一つの政党として解決を図ろうとする方向に向かないことが明らかになった今、この政党に、自民党とともに未来を託せるのかどうか、見極める大事な時期に今あるのかもしれません。

小沢辞任表明が公に伝播されるまで、政権交代ありき、小沢命のごとくいわば狂信的とも思える、あからさまな態度を明確にしてきたブロガーの一群がある。辞任が本人の口から表明された今、彼らはどのようにこれまでを「総括」するのか、少しは興味あるところですね。小沢氏の豪腕などと祀り上げられたイメージががらがらと崩れ去ろうとするとき、彼らのとってきた習性から判断すると、新たな偶像が必要になる。偶像を、オブラートにつつんだまま、つまり正体不明のまま被崇拝者としていかに維持しうるかどうか、これが問われることになるのです。小沢信奉者の一人だと目される人は、辞任によって意気消沈しようとする自らの心のうちを吐露しながらも、それではいけないと民主党支持にたちもどろうとまるで自らを叱咤激励しているかのようです。小沢命の態度から、それは小沢氏が民主党に在籍するかぎりにおいて形式的に民主党支持を意味しますが、イコールではないでしょう−民主党そのものの支持に「転向」する必然性は何ももちろん明らかにされることはないのです。

いまだに政権交代の内実も明らかにできないまま、今度は小沢が辞任したら、したとしても民主党支持と言い切る心性はいったい何でしょうか。テサロニケ氏がブログ左翼という言い回しをするとき、念頭に置かれているのはまず一つに小沢信奉者なのでしょうが。左翼といえるのか否か、その議論は残るはずですが。このように攻撃されるに足る、非整合的な態度はどこまでも拭いきれないのです。

古舘一郎の番組に岡田克也が登場しています。まあ、民主党主義者と、先に述べたこれまでの小沢信奉者、民主党命に「転向」した彼らをよぶとすれば、そのうち岡田か鳩山か、どちらかを命と叫ぶにちがいありません。結局、形式的に似非自民党の小沢から、同じように似非自民党たる民主党の、その次に鳩山がくるのか、岡田がくるのか、ちがいはその程度といいきってよいほどのものと見極めてよいのではないでしょうか。
つまるところ、政権交代などという形式をいくら語ったところで、内実が明らかにされないままでは、信用できない。いわゆる政権交代が国民にとって意味をもつのは、その前後で国民にとっては、くらしやすさがよりよい方向で変化するなど、好転してこそのはずです。
結局、小沢氏の辞任からきょうまでの鳩山、岡田氏の代表選出馬の意思表明までの経過で、われわれ国民が確固とした、そうした変化の兆しを感じ取れるかといえば、私にはそうは到底思えない。メディアは代表選をまた、マスメディアお得意の勝負事にしたてて面白、おかしく報じますが、国民にとってどれほどの価値をもつのか、それぞれ考えてみてもいのでしょう。
小沢氏の辞任から鳩山、岡田氏の代表選出馬表明まで。これまでの繰り返しにすぎません。
小沢氏の多額の献金受け取りにたいする民主党の見解、小沢氏の説明がこの時期に示されるとすれば、それは画期と評価してもよいのでしょうが。