代表辞任後。。


もちろん麻生や東国原などを支持するつもりは私には毛頭ありませんが、彼らがのべているのが正論なのは否めません。癪にさわるというものです。要するに、私の心情としては、麻生や東国原が正論を代弁する事態ほど、居心地の悪いものはない。それほど、小沢氏のとった行動は、少なくともこれまで多くの有権者からはそっぽをむかれる態度だったということの証でもある。だから、かえって麻生や東国原のことばが都合の悪いことに映えるのだす。だれがいっても同じなのに、あるいは多くがそう感じているのに。
http://www.j-cast.com/2009/05/11040897.html

この記事が指摘するようにメディアは、政局がらみで事態、つまり小沢辞任問題を解釈し、解決しようとする。選挙戦に(辞任が)どう影響するのか、後継は誰か、なぜ今なのかなど、もっともらしく語るのです。
しかし、考えてみると、小沢の辞任表明で日本の政治という具合に大きく構えると、一歩でも事態が進展したのか。少なくとも、国民の側からみると、何も変化はみあたりません。(小沢氏の、あるいは氏だけではないが)金権体質と政治を結果的にゆがめてきたか否かが西松建設違法献金疑惑で問われているのに、昨日のエントリーでふれたように小沢氏はだんまりを続けている。彼が語ったのは、民主党が主張しつづけてきたように、後にも先にも何も定かではない実体たる「政権交代」にとってどうかという基準で、辞任を判断したというだけのことにすぎません。ここにいたってもまだ、民主党政権交代ですべては解決するというつもりなのでしょうかね。国民の今の窮状から脱却するには、ともかく交代を実現しなければならないといい続けてきたこれまでと同様に、小沢氏は辞任会見でも繰り返したにすぎません。すべては民主党のための政権交代という形式のために。ようは、あらゆることをここに収斂させてきたのが民主党でした。

私たちにとっては、いったい政権の交代前後で私たちの暮らし向きがどのように変化するのか、つきつめれば好転するにちがいないという可能性が私たちに刻印されてこそ、選挙によって、自民党の多数から(この場合の)民主党、あるいは民主党と共同する政党をあわせた多数が形成される結果をもたらす条件を広げることになるのでしょうが。よく考えてみると、はたしてその展望、筋道が有権者に示されたことがあるのでしょうか。そんなことはなかったのでは。それは党首の辞任という一大事にいたっても明らかにされないのですから、推して知るべしというものではないでしょうか。あるいは、小沢氏の政治生命が断たれるという、ある意味で歴史的な出来事においても、それが伏せられたままでしょう。そこを不問にして繰り返される政権交代の掛け声に、なんら疑問を感じることなくついていけるものかどうか考えてみる必要がある。そもそも政権交代のかけ声は、今の自民党政治をどのようにかえようとするものなのか、だれが鮮明にうけとめてくることができたのでしょうか。私なんかは、なにがかわるのか説明できないで、交代などと語っても、せいぜい自民党内の派閥の領袖による争いの結果の首相交代と同質のものではないか、こう考えてきたのです。

今回の辞任の引き金になった政治とカネの問題を考えてみればよく分かります。小沢氏と、あえていえばダーティー自民党政治家との区分ができると、あなたは自信をもって主張できますか。その際の互いを分かつモノサシは何なのでしょうか。
明確な答えはまったく期待できません。小沢氏が今にいたっても、いまだに自身がいきさつを説明することに責任を持たず、問われている「政治とカネ」問題の、起死回生とたとえることのできるような解決策を(もちろん)示しえないまま、これに頬被りしながら、何かしら自民党とは異なるかのような「交代劇」に引導していくような言説がいまもって語られることを到底みのがすことはできません。

ただ、小沢氏に残された課題は、いかに自分が「政治とカネ」にかかわってきたのか、あるいはかかわってきていなのか、真実を語ることのみではないでしょうか。
日本政治において、国民の意思とは関係のないところでゆがみを持ち込もうとする圧力にいかに対抗しうるのか、その能力が当事者たる民主党に問われています。民主党には、ゆがみを持ち込もうとする勢力への対抗する決意はもちろん、手段と展望もまた有権者に明確に提示することが求められている、そんな気がするのです。