首相「子ども2人、最低限の義務」発言− 欠落させているのは


首相「子ども2人、最低限の義務」 国会答弁、後で撤回

発言の撤回をのべたそうですから、突っ込みもほどほどにと(発言した側は)考えた、あるいは思惑が働いたのでしょうか。でも、麻生首相は、記事による限り、義務という言葉は不適切だとのべているわけで、はたして問題の所在はそこにあったのかどうか、問うてみる必要があるし、首相がその点をふまえて発言しているのかどうか、よくみてみなければなりません。
つまり、義務という言葉を使う、使わないに限らず、女性は子どもを産むものだと決めてかかる(首相の)認識そのものを問わずにはいられません。首相は、それを、2人産むことが最低限の任務と一度はいったわけですね。(多少の)反省があったのでしょうが、訂正されたのは、義務という彼の言い回し、これが訂正されたということにすぎません。
訂正の弁があったとはいえ、私たちの知る、過去の柳沢氏の発言と今回の麻生首相の発言を明確に峻別できる理由は私にはみあたりません。麻生氏がいかに訂正しようと、ほとんど柳沢氏と同じことを再び語っていると私はみなします。
つまり、女は子どもを産む「機械」だという点において、柳沢、麻生両氏の発言の間の区分はほとんど意味をもたないと思えるのです。

麻生氏は「産みたいと思っても産めない、いろいろなことがあって産めない、肉体的理由で産めないとか、いろいろな理由があろうと思う」と釈明したということですが、そうした理由があるにせよ、それでも依然、女性という性はあらかじめ子どもを生む性だという呪縛から彼自身の思想が解き放たれているといはいいがたいのですから。そこのところがおそらく問われるべき核心ではないかと思うのです。

発言の訂正に動いたのは、私の受け止めでは発言に誤りがあるのですからその意味で当然のことなのですが、正すべきところを正さずにいるのは否めないと思うのです。別のことばでいえば発言の誤りの核心をそらしたところで、訂正しても、それ自体は本質的に相互の認識を深め、高めていく点では、首相は何をいっているのか、そうした批判が厳然として残ることもまた確実であることを指摘しなくてはならない。
再度、繰り返していえば、女性は子どもを産むべきものだという認識からまず、自らを解放することが麻生首相には求められているのではないでしょうか。