世襲政治家の議論について


西松違法献金問題で小沢一郎氏や二階俊博氏の介在が伝えられています。これに象徴的なように、世間では、政治家というものには「特権」というものがあるように信じられている。だから、ワイロが成り立つ。贈収賄の成立には、こうした世間一般の特権にたいする期待と同時に、特権にたいする政治家本人の意識がなければなりません。
以下の記事の伝える岡田氏や菅氏の考えの前提には、少なくともこんな認識を彼らがもっているということがなければなりません。そうでなければ話が先にすすみません。

岡田民主副代表:世襲制限で孤立無援…自民・菅氏にエール
二代目や三代目、あるいは政治家の係累が政治家であって贈収賄に関与すれば、もちろん指弾されなければならない。二代目や三代目、あるいは政治家の係累、そのいずれでもなくても、贈収賄に関与すればまた指弾されるのは当然でしょう。
指弾されるのは、政治家が二代目や三代目、あるいは係累であるからではなく、贈収賄に関与したからにほかなりません。
なので、政治家の集団、別のことばでいいかえるのなら、たとえば国会に自浄能力というものがあるとすれば、その発揮は、贈収賄への政治家の関与をいかに排除するのかという点に注がれなければならないでしょう。

私が、上の記事に違和を感じるのは、世襲制限を唱える人たちは何を解決しようとしているのか、皆目みえないからです。たとえば「政治とカネ」の問題を解決しようとしているとも思えない。「政治とカネ」の問題の解決は、世襲制限ではむろん不可能ですし、企業献金を全面禁止することを欠いてはいけません。全面禁止が必要条件になる。いったい世襲を制限して得るものは何なのでしょうか。何ができるのでしょうか。
むしろ、私には、こうした議論が結局、論点をそらす役割を果たしているとしかみえません。

ところで、世襲制限には、特定の対象には被選挙権を与えないという意味が当然、含意されています。二代目や三代目、あるいは係累ということで、つまりその人の出自いかんで憲法でうたわれている被選挙権がなくなるわけで、これは基本的人権の考え方を大きく揺るがすことになりかねません。今日の政治では、どの候補者を選ぶのか、決めるのは有権者です。候補者の説く政策が気に入らなければ選ぶ必要はない、それだけのことです。政治家としての資質を欠くと判断するなら、その候補者を選ばなければよいだけのことです。

「特権」という名をつけ、対象をあぶりだし、たたくのに汲々とする、あるいは特定の階層や立場にいるというだけで排除しようとする動きが繰り返され、それを支えるいわば集団ヒステリーがしばしばみられます。世襲政治家の議論もまたしかり。こんな例もあります。共産党の穀田議員の子が衆院選比例区に出たことをとりあげ共産党世襲にそまっている旨を記述したブログに以前、遭遇しましたが、これなど極端な単純化の好例でしょう。
つまるところ、世襲を議論しよう、しようとする人の頭のなかには、「特権」ということが想定されていること、したがって、「特権」という切り口から政治家をみる以上、政治というものは政治家がやるものだとあらかじめ認識されていなければならない。政治家を選ぶのは有権者という視点を欠落させてしまう。

仮に政治家にふさわしくない(と思うの)なら、選ぶ必要はありません。政治家を選ぶのは、有権者以外にはないのですから。それを出自でもって排除しようとするところにねじれが生じるわけです。
記事の伝える孤立無援やエールを贈るなどの一つひとつはそれ自体、他愛のないものですが、世論をこうしてミスリードすることに彼らは一役かっているともいえるのです。