西松違法献金疑惑が問うもの。


結局、西松違法献金問題では、小沢に焦点があたっている。そして小沢以外ではせいぜい二階にあたるくらいだ。けれど、問われているのはこれまでの自民党政治である。事件の成り行きは、それがゆきづまっていることを示している。
自民党政治というのは、当ブログでは、繰り返すように自民党がやるからそうよぶのではなく、財界・大企業と米国の意向を具現化する政治のことだ。西松問題は、民主党の小沢もまた、自民党政治の具現者であることをあきらかに明らかにした。ジャーナリストの伊藤惇夫は、比喩的にいえば本籍自民党の人物だろうが、きょう、テレビ番組のなかで小沢もまた(55年体制を形づくってきた)旧来の自民党であることを指摘していたが、それ自体はただしい。
つまり、小沢は現住所は民主党だが、身も心も自民党と同じであるという事実を、この事件をとおして確認することができる。今になって、彼は企業献金の全面禁止をいいだしているが、その発言に価値を見出すものはいないだろう。一過性のものではなく、長きにわたって特定の企業から多額の献金を受け取ってきた事実は動かせないのだから。そう思うのなら、あるいは気づいたのなら、その時点であらためるべきだった。これだけの事件として明らかになったあとで、しかも公設第一秘書が逮捕されたあとに、会見でそうのべたとしても迫力はない。見向きもしない。この事態に及んであえてそう発言する彼を、むしろ欺瞞的にさえ感じてしまう。

問われているのは、自民党のやってきた政治も、我われにはそれに対峙しているかのようにみえる、野党第一党の党首もまた、同じように企業にからめとられているという現実である。
億、何千万円という単位の献金を受け取っていて、知らぬ存ぜぬはないだろう。施策に影響を及ぼさないとは誰がいえるだろう。予算をその企業に回す、つまり公共事業という名の仕事を寸分も回さぬと誰が保障できるだろう。企業の献金というものは、まったくこれとは逆に、贈与でもって自分の利益を生み出そうとする企業側の意思とそれに応えようとする受け取る側の意図があらかじめ込められている。

二階も、小沢も、国民の税金があてがわれる公共事業といものが自分に献金してくれた企業に集中することを少しも悪だとは思わない政治家ということである。政治が歪められても厭わない政治家だったということである。

しかし、今日の政治のいきついたところは、新自由主義という名で、規制緩和をおこない企業の儲け口、ようは市場を拡大し、一方では、自己責任というイデオロギーでもって、本来、国、行政がおこなうべき公的な仕事、責任を放り出し、たとえば社会保障を切り捨て、縮小してきたのではなかったのか。この構図は、政治の注ぐ目が、大企業・財界にこそあって、国民は埒外に置かれ、視野になかったということを端的に語っているのだ。

たしかに二大政党が志向され、それが執拗低音のように刷り込まれる現状にあって、国民の関心が自民と民主という2つの政党に集まるように、この2つの党が政権を(本気で)争っているかのような世論づくりが繰り返されてきた。選挙制度小選挙区制というAかBかという投票行動に収斂させるようなものにつくり変えることと結合させて。
それにもかかわらず、西松違法献金問題は、この二大政党政治というものが、我われの眼にみえないところではまったく同じことをやってはばからないということを証明してみせた。証明されたのは、2つの政党が、同じように財界や企業に寄り添っているということである。そして、政治をそのいいなりにゆがめても恥じないということである。
国会でこの2つの党双方が、がんじがらめにされたがごとく、この問題を追及しない事態は、これをそのまま反映している。

仮にそうでないとするなら、二大政党の一方の側であって、ここまで政権交代を叫んできた小沢は、この点で明確に反論しなければならない立場に置かれている。進退の表明以前に、国民にとって重要なのは、この点での小沢の見解である。