面白い2つの政党事情− 国民新、民主の場合


亀井静香という政治家の、政治家としての資質をみた思いがします。

「書かないなら会見出ないで」国民新党が一部の記者排除
国民新、記者の会見出席拒否 「党に関する記事少ない」

以前に、この亀井も間に入って、加藤紘一山崎拓、そして菅直人がテレビ番組に出て、何やら以後の政党再編を匂わすかのような動きをみせたとき、これに積極的評価を与えたブロガーも散見されました。

わが国でのブログ界の状況は、たとえばこの一つの小さな動きとそれに過剰に反応する言説に端的なように、底の浅さと批評眼の脆弱さを特徴としているかのようです。どちらかといえば、周辺では左よりであると目され、読者も相対的に少なくないブロガーにしてこの状況があるのですから、全体は推して知るべきではないでしょうか。
そして、同じことが繰り返される。
小沢公設第一秘書逮捕以後の過敏な、ヒステリックな反応が一部にみられた。しかし、時がたつにつれて、その首長のばかばかしさはいよいよ明らかになってきたと思えます。

話を冒頭に戻すと、亀井のこの反応のおかしさは、一部の記者を排除するという結果にももちろんあるのですが、それだけではない。そもそも政党というものが、自らの政策をどのように、誰にむかって発信し、実現させるのか、その理解がはたして亀井にあるのでしょうか。あたかも亀井は、メディアにむかって発信するかのようです。あるいはせいぜいメディアを介して、自らの政策を広げたいと考えているかのようです。その点にこそ、まず苦笑せざるをえないのです。

その上で、(一部)メディアの排除をためらわない亀井は批判されなければなりません。すべて非公開にするのともむろんちがって、自らの意向にそった一部のメディアを対象にニュースソースを提供するということですから、メディアの支配にもつながる危険性をはらんだ行為でした。

自民、民主をおいかけ、報道するのは日本のメディアの現状であることもまちがいないのでしょうが、それは、メディアの締め出しによって正されるものではけっしてないでしょう。2つの記事であきらかなのは、朝日と産経が排除され、読売は排除されていないということ。

私たち市民に求められているのは、みずからの社会と運命をえらびとっていく主体として権力や社会環境などあらゆる分野への関心を高め、報道と取材に反映させていく力をつけることになるでしょう。
しかし、そうした場合、為政者のもつ情報と市民の知る情報の間に大きな差が現実にあるという問題を避けることはできない。この差を埋めるために、メディアがあるのではないでしょうか。それを担保するために表現の自由が存在しないといけない(*1)のですから、その点から、亀井静香の行為を考えてみるべきではないでしょうか。

さて、このような亀井のパフォーマンスにあわてて反応したブロガーはこれをどうみるのでしょうか。

ああ、ため息がでそうです。
民主党という政党は、個別の政策で一つにまとまらない。まとめられない。防衛問題は、その象徴でもあるでしょう。
ですから、直嶋正行ネクス官房長官ともてはやされるとき、本人にかわって恥ずかしさがこちら側がこみ上げてもくるのです。そもそもその名に値するか、こんな不安がにある、よけいなこととは知りながら。

海賊対処法案:「なぜ海自か」最大争点…民主が論点整理

それは記事が伝えるところでも証明されています。論点整理の過程でいろいろ意見が出され、結局、「唐突に海自が出てくる」との意見が多く、海自を派遣する必要性への説明を求めることを最大の論点」というのですから。

海自派遣にたいし、では民主党はどんな態度をとるのか定かではありません。
海賊対処法案の成立を前に自衛隊の派兵を日本は許したのです。民主党の態度は明確にされるべきでしょう。
どうやら政府案を「修正」させるところを落としどころに考えているふしが記事からみてとれるわけで、日本の世論をリードしていくには、あまりにもおそまつな党内の議論が、記事の一端から読み取れる。

政策をはっきりさせるのは「政権交代」のあとでという、これまた紋切り型の返答がかえってくるのでしょうね。

*1; 「メディア不信」と情報を請求する権利(07・6・30)