西松違法献金− 理解できない亡者たち


国策捜査や権力の暴走という切り口で、捜査のあり方を批判するとき、捜査される側が権力と対峙する反権力の側であることがもちろん含意されています。しかし、そうであるなら、今回の事件(より正確にいえば、捜査のあり方)を国策捜査と性格づけたり、権力の暴走と規定することが、のちにみるように実態にいかにそぐわないか、そう強く私は思うのです。

今回の西松違法献金問題にあたって、小沢秘書逮捕をきっかけに、小沢一郎氏自身の口から、そして民主党の公式コメントのなかにこの点が繰り返されました。
したがって、小沢信奉者はいうまでもなく、民主党による政権交代こそがこの日本を救う未定であるかのような言説を日頃ものする連中が一斉に、小沢代表や鳩山幹事長にならって、検察の横暴にふれ、秘書逮捕のいきさつが権力犯罪のように描きたてたのは周知のところです。

その際、この西松献金問題ではじめて事の重大さが理解されたのでしょうか、漆間の存在と役割に関心が集中しました。つまり、今の権力機構に国民弾圧の布陣がしかれているということを、この西松事件、しかも小沢秘書の逮捕劇に見出そうというものです。これもしかしおかしな話で、漆間の経歴と思想に着目すのなら、彼の任命時点でその配置のねらいと危険性が指摘されてしかるべきだったでしょう。その点を、民主党が声を張り上げて主張してきたとは少なくとも思えません。

結局、漆間の発言が本意か否かは何もここでは問題ではなく、逆に、彼の「失言」がかえってクローズアップされるのは、こと企業献金という今日の日本政治をある意味で規定する重要問題に国民の関心と議論の論点が集中するのを避けるためのものであって、したがって表向き対立しているかのように描かれる自民・民主がほんとうは同質であること、線引きがけっしてできない根が同じものであることが暴かれることにたいする危機感の表れにほかなりません。自民党にとっても、民主党にとっても、それぞれの存在価値が理解されること、すなわちお互いの他者とのちがい、その意味で一方を形式上、排除するしかけをもたないことには政権を維持したり、奪取することはできないのですから。この点で、おそらく自民も、民主も(多額の献金をもらい、その違法性が強いという)傷をもっているのですから、最終的にはうやむやにされる可能性は高いと判断します。あえていうが、企業献金の禁止をやれるものならやってみなさい、自民、民主の議員の皆さん。

おかしいのは、彼らが賛成し、成立させた政党助成金なる制度をたてに堂々と国民の税金をぶんどっているわけです。国民一人ひとりの思想信条の自由をうたう憲法のもとで、国民の意思とは関係なしに議席をもとに配分するという理不尽。これにも頓着しない自民、民主。しかも助成金導入は、企業献金をなくすためというかけ声で実施されたのですから、国民は二重三重にだまされているといってよいでしょう。

こんな事実がありながら、「適法」に献金を受けているなどと語りながら居直ろうとする心性を、私は見過ごすわけにはいきません。

企業が莫大な利益を得る一方で、貧困が国民のなかに深く広く及んでいる今日は、税金のとり方と配分を、極端に企業の有利なようにゆがめてきた結果でしょう。そのゆがみを生み出す要因の一つが企業献金でしょう。企業は、税金が配分された公共事業を受注することで自社の利益を売る。このしくみを加速させる触媒の役割を献金が果たしている。そのことを献金する側も、受け取る側もあらかじめ知っているからこと、このシステムが機能するのです。カネの出所を承知しないなどというのは、企業献金の授受にかかわっていえば、ありえない話なのです。
いよいよあきれるのは、「出所のはっきりしないカネ」も受け取るほどの、国民には到底理解できない、小沢や二階などかかわった政治家たちの亡者ぶりです。
(「世相を拾う」09059)