派遣村の普遍化について


派遣村の経験を各地でおこなう取り組みの意義について、数日前にふれた(参照)。公的なセーフティネットが機能しないのが今日までであった。だからこそ、派遣村のとりくみは画期的であったといえる。前述のエントリーでは、生活保護が最初のセーフティーネットになっていて、それ以後は何もない日本の現状がそこにあるのではないかと思うような現実とうことを強調した。

派遣村の地方版を取り組んでの最も強い印象はその点にあった。私たちが取り組んだ結果は、朝日新聞の当地方版(12日夕刊)で詳しく報道された。結果を最初にのべると、派遣村という一日の取り組みを通して、約80人の生保受給申請希望者がいた。派遣村の翌日、つまり今月2日から数日間にわたる集団申請をおこなった。そして、本日12日、68人が生活後が支給された。法律の上では申請から2週間以内の決定がうたわれているが、そのとおりに支給してこなかったのがこれまでの行政の姿勢であった。10日間くらいで受給されたわけだ。これが本来の姿でなければならない。先のエントリーで後藤道夫氏が指摘した今日の生活保護が最初のセーフティーネットという意味は本来、生活保護以前に機能しなければならないはずの雇用保険の適用条件が厳しいために、選びようがなく最初に生活保護を申請するというしくみに今日あるということだ。

私は本日、日研総業派遣労働者として大分キヤノンで働いていた30代前半の青年と面談した。彼は、派遣切りにあった結果、以後の家賃を払えずおよそ一年を経過していた。派遣村にも訪れた彼は、そこで生活保護申請の道があることをはじめて知り、きょう受給にこぎつけたのだ。面談の最初に彼の口から出たのは、家賃の滞納のことであった。そのことが彼にとっては、重いまるで罪を背負っているかのように負担となっているのがその表情からもうかがえた。自らを犯罪者であるかのように思い込むのだ。
一つの光景だが、こんな個別の事情がおそらく多かれ少なかれ68人に共通するものではなかったか。

派遣村が先鞭をつけた感がある路上生活者の生活保護申請を妨げてはならないという通達を引き出したことで、取り組みの広がりとともに各地の自治体の対応に変化が生まれている。
朝日が的確に伝えているが、かつてはこんな具合だった。

「最後のセーフティネット」とされる生活保護をめぐっては、厚生労働省が「住所がないというだけで申請を断ってはならない」としているが、実際には全国の自治体で「安定した住居がなければ受給できない」と申請すら受理しない例が後を絶たない

わが県でもその結果、たとえば北九州市では2005年1月の餓死事件から、「おにぎりが食べたい」という当事者の遺書でよく知られた小倉北区の餓死自県まで、生活保護の受給を要因とする事件が相次いで4件も起こったのだ。これは当時の北九州市の採った「水際作戦」にその要因があったとしても、全国どこの自治体でも起こりうる事件であって、どこの自治体もまさに生活保護から貧困層を排除しようとする姿勢は、一様であったといえる。その証拠に、「おにぎりが食べたい」の餓死事件以後も、浜松市で市役所前まではk0ばれた高齢女性が生活保護を受けられずになくなった。岐阜県関市でも、そして今年1月には大阪市住吉区で派遣を切られた男性が餓死するという事件が起きた。これらは、最初のセーフティーネットに救われなかったらどうなるのかを示している。誰もが、ひとたびレールを踏みはずしてしまうと、同じように滑り落ちてしまう日本の社会なのである。

これまで住所がなくて生活保護の申請を受けられなかった人がどれだけいるか。それを考えると派遣村の経験をへて、取り組みが全国に広がり、現実の生活保護行政を動かしつつある。昨年来の派遣切りにあった労働者は解雇を宣言されると、たちまち住居を奪われる運命にあった。住居がないと、これまではまず、就職しようにも次のステップが踏み出せなかったのが現実だった。
今回の経験では、住所がなくても生活保護の申請を受け付けるとともに、低賃料の住居を市が紹介し、住居のめどをつけ、生活保護を受給を認めるという前進を結果的にかちとった。東京派遣村の取り組みの大きさをあらためて実感するわけだ。

ただし、何もしないでは自治体は動かない。取り組みが行政を、自治体を動かす。派遣村の普遍化がどうしても必要だ。そして、派遣切りにあった人たちに今、求められている緊急生活支援の内実をつくるのではないか。