金権腐敗は自民・民主では解決できない。


西松建設の違法献金問題は、曲折はあったとしても、これまでの金権腐敗事件の域を一歩も出ない形で終わるだろう。結局、自民党にとってかわろうとする民主党の党首が、これまでの自民党と同様の金権腐敗の構図の中にずっと置かれていて、その欺瞞が今回、暴かれたということになる。
小沢一郎はつまるところ、事件の進捗を前にして、企業献金の存在を容認するだけでなくもらって当然だとばかりに開き直る一方で、捜査のあり方に関して権力の横暴を強調するにとどまっているというのが率直な感想だ。さすがに検察は、小沢・民主党の「国策捜査」という指摘を、二階の聴取という、あたかもバランスをとる形でかわし、小沢の任意調査をほぼ筋書き通りに実行する世論の形成に成功したといえる。
漆間の「先走り」があっても、先手を打って釈明させた。
メディアも、民主・小沢の辞任の声の高まりを報じる一方で、自民党・二階の聴取を大々的にとりあげ、その結果、政治不信をあおる風潮が固まりつつあるように思える。

しかし、西松側からのカネの流れをよくよくみれば分かるように、献金の「恩恵」を受けたのは自民と民主の2党だけにすぎない。つまり、事態は、自民党と、自民党とほとんど変わらない思想と実践をその特徴とする民主党(の一部とあえていっておくが)のしでかしたことにすぎない。この2つの政党を区分できるものはないと実感できるだろう。

日本の政治はあたかも、自民党民主党という2つの政党で動いているかのように映し出される。けれども、西松献金問題に的確に対処できるのは、自民党でもない。民主党でもない。企業献金に反対しているのは、共産党社民党だとひとまず考えられる。しかし、福島瑞穂のこの事件が3月、報じられてからの言動の右往左往もはなはだしい。小沢の秘書が逮捕され、小沢が不正は何もないと語ったとき、国民の多くが設問不足と感じ取ったのだが、福島はいちおうの説明責任は果たしたなどとコメントをのべていた。しかし、その後、一日一日、事件の概要が伝えられ、世論が小沢の対応をよからぬと受け止めていることが明らかになって、彼女は明らかに対応をかえた。説明責任を果たせと強調しはじめたのだ。一とう最初の福島は、院内の共闘を慮ったのだろうか。

政治はあきらかに蛇行している。自民党政治はあきらかに壁にぶちあたっている。自民党政治の弊害を、限界を、いよいよ露呈していることを、昨年の世界金融危機、そして今回の金権腐敗政治にどっぷりとつかっている姿をさらけ出していることに私たちはみてとることができるだろう。
国民はといえば、不景気のしわよせを全面にうけとめて、明日には自らにふりかかってくるかもしれないという強い不安にさらされているというのに。
西松の不法献金は、形式上、企業から政党・政治家へのカネの授受という流れなのだが、その一方で、献金が成立するには、もとより別のカネの流れを前提としているのであって、すなわち、公共事業というものを献金をした企業が受注するという結果をもたらすだろう。献金をした企業は、別のことばで表現すれば、国民の税金を公共事業という媒体を介して自らの懐に手にいれるという仕掛けである。
小沢も、二階も、その手配に一役かったと疑われているということだ。
伝えられる数字から判断できることは、その可能性がきわめて強いということだ。

国民は今回の事件にかぎらず、しばしば保守政党との企業とのただならぬ癒着の関係を、贈収賄、違法献金という形でみせつけられてきた。こんな関係は、端的にいえば、企業にモノをいえず、逆にいいなりになるような、多額の金銭の授受が日常的におこなわれる日本の政治のあり方に起因している。
企業献金のこうした側面に国民の批判が強まったとき、手のひらを返すような格好で政党助成金の実施に熱心だったのが小沢でもあった。しかし、政党助成金が制度として動き出しても、企業献金はいっこうになくならないのは今回事件が示しているとおりだ。小沢はむしろ、恒常的に西松からカネをもらっていたのだから、国民を裏切ってきた欺瞞ははなはだしいといえる。自民も自民亜流も国民は拒否する必要があるだろう。企業献金問題は、自民・民主では解決できないのだ。

次期総選挙は、自民・民主の対決という枠組みからぬけだし、政党の主義主張とこれまでの実践を、すべての政党に関して問うてみるいい機会ではないか。