「追想 加藤周一」− 加藤の感受性と洞察力


一海知義が「追想 加藤周一」の5回目に登場した(朝日2・19)。中国文学者の一海と加藤の対談であれば、当然、話は中国古典に及ぶだろう。李杜から孔子、彼らを二人がどのように扱うのか、一海の文章を読んで直に聴いてみたい気を強くした。
一海によれば、加藤を杜甫を採って、李白を退けた。加藤はまた、『論語』を採り、『孟子』を選ばなかった。それは、杜甫の詩の端正さ、ひらめきにおいて、あるいは『論語』の超人間的なひらめきにおいて。
こうしたところに、加藤の感受性と洞察力を一海は見てとっている。「鋭い感受性と深い洞察力」がどこからくるのか、そのあとで明らかにされる。

一海はこうのべている。

私は以前から、加藤さんの文章、看護の使用をできるだけ抑え、しかも冗長ではなく明晰な文章を読んで、その背後に、逆に漢文の深い影響があるのではないか、と思っていた。

しかし、この思いは一人一海だけのものではないだろう。

加藤は、自らの経験をもとに誰よりも日本を相対的にながめ、世界のなかにそれを位置づけながら、日本の価値をそこから切り取ってきた(参照)。日本文化の特殊性をもっとも厳しく見、それでいて日本文化をもっとも愛し、価値を見いだしていた。

それは、一海が紹介するつぎのような加藤の習慣にも表れている。

一日に一度は漢文の古典に関する本か、古典そのものを、少しでもいいから何ページか読むことを日課にしています

これは漢文の勉強というよりも、日本語の水準を落とさないために必要だと思いますよ。日本語のある緊張したリズムを維持するためにも。

たとえば日本語はあいまいだという通説がある。これに私はずっと疑問をもってきたが、加藤はむしろ日本語のもつ特長に着目している。
相対的にみることに徹して、はじめてそれにたいする愛も生まれるのだろう。