普遍と特異をきり分けるということ− 池澤夏樹が語る加藤周一


加藤と福永武彦中村真一郎はかつて、マチネポエティクというグループを作って活動した。加藤の、その意味での同志であった福永武彦の子、池澤夏樹が加藤を評している(朝日2・12)。

最初に、福永武彦のことをのべると、彼の書いた『廃市』は私が一時期を過ごした地方の町を舞台にしている。福永自身は福岡の出身である。繊細で、静謐な彼の文章はよく知られていて、ここで評するには及ばない。こんな福永なのだが、加藤、中村と三人で著した『1946・文学的考察』に強い衝撃を私は受けた。そのときの印象を、別のエントリーでつぎのようにのべた。

敗戦直後の解放感も手伝ってか、血気にあふれ、自信迸る文体とでもいう以外に表現しようがないと、はじめて読んで思ったことを覚えている
追悼− 加藤周一の眼(12・15)

福永も、中村ももちろん鋭かったが、とりわけ加藤は抜きんでていたと思う。そして、その加藤の特徴は以後も貫かれてきたのではなかろうか。

こんな父・福永との親交ある加藤に池澤は傾倒していたと「追想 加藤周一」(シリーズ第2回)で告白している。
加藤を読む多くの人は池澤と同じ境地にあると密かに思うのだけれど、池澤は加藤の『芸術論集』で加藤が扱った狂言に魅せられ、可能なかぎり舞台を見てまわったらしい。池澤の文章のこの部分を読んで、まさに同じような行動を自分がとったことを振り返り失笑してしまう。加藤の叙述はこのように、人を惹き付け、行動せしめる、強い力をもっている。それは、別の表現をすると、前回のエントリーでふれた加藤との距離感を読者が感じ取り、それを埋めようとする方向に意識が働くからにちがいないだろう。

池澤は、加藤の思想の源泉を、反戦と民主主義に求めている。同時に、この指摘に池澤の鋭さがあると私は思う。池澤は、加藤が自ら普通の人であったと述べたことに言及し、その加藤が普通であって、その上で、普遍であることと特異であることをはっきり分ける点で、加藤と他を峻別している。

そこからこそ普遍の思想が生まれるのではないか

この池澤にまったく私は賛成する。