「追想 加藤周一」− 高畑勲が語る。


高畑勲によれば、加藤周一は最も信頼できる導き手ということだ(「追想 加藤周一」、朝日2・18)。加藤が亡くなったとき、最初に思ったのはそのことだったし、おそらくこのシリーズの語り手5人*1はすべて高畑と同じように思っているといえるだろう。

エントリーで、「資本主義の限界が語られはじめている今日、加藤ならばこれをどう考えるという具合に、物事をみる際の一つのコンパスのように考えてきたのだが、もうそれもできない」と書いたのだが、高畑はこのようにいう。

かけがえのない加藤氏は先達でありつづけ、おそらくこれからもそうであってくださると思う。なぜなら、氏の書かれたものはゆるぎなく、読み返すたびに新しいから。

なるほどそうなのだが、これから起こる出来事、つまり未来が現在に転化する際、それをどう読み解くのか、そのときの加藤の存在は私にとって、たえず準拠すべき指針のようなものであった。それを欠いた意味は大きい。

高畑の文章は、そのタイトルから明らかなように、日本あるいは日本文化にたいする加藤の視線を取り上げている。日本を相対的にながめ、世界のなかにそれを位置づけながら、日本の価値をそこから切り取る。まぎれもなく加藤は、この作業を見事に成し遂げた一人だといえるだろう。たとえば「日本文学史序説」のように。

より具体的にいうと、高畑が指摘するのは、日本文化を世界から切り分ける際の加藤の着眼である。加藤の眼は、世界のなかの日本の特殊性を見逃すことはなかった。例を高畑にならってあげると、「今=ここ」主義という言葉で加藤が特徴づけるように、日本文化は、此岸性・集団主義・感覚的世界・部分主義・現在主義で貫かれているということだ。もちろん加藤が「今=ここ」主義という言葉で日本文化を語るとき、批判的な立場からであるのは論をまたない。今日もまた、「今=ここ」主義が溢れかえるなかで私たちは生きている。政治の世界の今=ここ主義、そしてそれを批判の対象としてみているはずの批評の、これまた今=ここ主義。このように、いたるところに、繰り返し加藤の指摘した特殊性が存在するのだ。
こうした日本文化の特殊性をもっとも厳しく見、それでいて日本文化をもっとも愛し、価値を見いだしたのも加藤だといえる。

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