増長する・または・虚勢を張る奥谷禮子


守勢に立っているのだから、虚勢を張っているといえなくもない。
だが、増長しているのだ。別の言葉でいえば、これは派遣切りをいっこうに厳しく規制できない、現政府の姿勢に起因しているのだ。
こんな奥谷の言葉で、いっそう労働者保護法の制定が必要だと実感する。
http://news.goo.ne.jp/article/php/business/php-20090216-04.html?fr=rk

いいたいことをいっている。整理しておくと、奥谷の主張の要点はつぎのようになる。

  1. 派遣労働者はもとより、期限つきの雇用関係の下で雇い止めが想定されていて、派遣切りは当り前
  2. 企業は必至に戦ってきたし、危機に際して、人件費の削減は当然
  3. (解雇された者の)生保受給によって働く意欲がなくなる
  4. 坂本哲志発言は正論
  5. 「ロストジェネレーション」というが、いくらでも脱却の機会はいくらでもあった
  6. 内定取り消しで違約金を払うのは、学生が内定を勝手に取り消すのに比してアンフェア
  7. 日本には無職と正社員というカテゴリーだけで派遣という労働形態は存在しなかった
  8. 雇用創出のために大企業の介入の素地をつくらなければならない

まあ、これだけの論点をまくしたてられると、雇用確保にたいする日本と西欧諸国のちがいが歴然としているなかで、少しも派遣切りを断罪し、雇用確保に乗り出そうとしない日本政府の不作為に威を借りていると想像したくなるというものだ。

以上の8つの論点を、このエントリーでは、つぎの4つに仮に区分しそれぞれについて少しのべてみたい。

■ 1、2、6について

雇用という関係がまずもって、使用する側としようされる側という非対称の関係であることは奥谷には眼中にないのだろう。圧倒的に弱い労働者だから、日本においても、労働者を守るために、使用者を校則する最低限の基準が労基法に定められているように。この非対称関係を奥谷は捨象している。

その上で、政府の調査でも、非正規社員の今報じられている大量解雇計画の6割以上が契約途中の解雇とされている。派遣社員であれ、期間社員であれ、有期雇用の契約途中の解除は、労働契約法で「やむを得ない事由」がある場合でなければできないと定められていて(17条1)、この法律でいう「やむを得ない事由」とは、「解雇権濫用法理における『客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合』以外の場合より狭いと解される」(労働契約法施行通達)というのが一般的解釈とされている。さらに、それを証明する責任は企業の側にあるのだから。「業績悪化」などという一般的な理由での解雇は違法であるというのが現行法による解釈だ。さらに契約満了による「雇い止め」や、大きな社会問題になっている一方的な内定取り消しも、その濫用は違法とされているのだから、奥谷のように当然だという根拠はまずないといえる。

■ 3、4、5について

このカテゴリーに共通するのは、派遣切りにあった者を、そうではない他と明確に峻別し、自らの責任に帰着させようとする点だ。こうした自己責任論は、構造改革の名のもとで競争をあおり、それについていけないものをすべて自分の責任だとして、差別と競争を強いておきながら、その一方で、差別と競争をバネに自らの利益確保を図ってきた大企業を銘財するものでしかなかった。

その際、競争に「敗れて」、湯浅誠のいうすべり台を転げ落ちて、ついに公的な援助、生活保護を受ける立場になった者にたいしても、また執拗に自己責任が問われ続けるのだ。こんどは、奥谷がいうように、生保を受けると、働く意欲がなくなる、働かないで保護費を得るのは、いかにも盗人といわんばかりの奥谷のつぎの言葉ではないか。


手取り一七万円を受け取って、保険もすべてタダ

生活保護が、長期でえあろうと、短期の、あるいは緊急の措置であろうと、いわゆるセーフティネットの名にふさわしいものであるのなら、理由のいかんをとわず受給する者をまず救うというただ一点のために機能しなければならないのではないか。
奥谷の発言のなかにすでに偏見を含意しているといえそうだ。

■ 7について

まったくの暴論である。
奥谷の同業者でさえ、たとえばつぎのようにのべている。

以前の日本にも、江戸時代ごろから人足貸し、人貸しといった、建設業などを中心に労働力の派遣が行われてはい  
ましたが、二重三重の又貸し派遣が平気で行われたばかりか、法律の規定がないためにマージンも不当に多く差し引かれ(いわゆるピンハネ)、派遣される労働者の環境は劣悪でした。また、人貸しを行う業者にも怪しいところが多く、日本における"人貸し"は、長い間社会的に真っ当ではない商売として見られてきました。
  http://www.haken-japan.com/tactic24.html

われわれの知るところでは、派遣業という企業の形態をもちろん整えていなかったにしても、日本社会でも中間搾取が横行していた事実であって、ピンハネと言う言葉は多くが知っているものだろう。今日の派遣業も、つきつめていえば、派遣先からの収益と、派遣労働者への賃金の差に、派遣業者の存在するゆえんがあるわけなのだから。

奥谷は、あえて日本における派遣の歴史に目をつぶっているのか、無知なのか、いづれかだというほかないだろう。あえて「無職と正社員だけ」と強弁する責任は強く問われてしかるべきだ。

■ 8について

今日、譲歩していえば、小泉政権がとった政策に象徴されるような新自由主義的施策が日本社会のすみずみまで亀裂をもたらしている。そして、米国発ではあったが、金融危機が世界中にその影響が広がるにいたって、新自由主義の潮流がいかに国内経済に害悪をもたらしてきたのかも世間の知るところになった。

その意味で、奥谷とはまさに相反する方向から、新自由主義の是非が問われなければならないと思う。総選挙はその絶好の機会でもある。
あわせて、私が思うのは、奥谷に典型のように、そして同じように日本の財界のトップたる御手洗富士夫に象徴されるような、新自由主義の時流に乗っかって、横暴勝手の旗を振り続けてきた連中の、特別の責任を問う必要があるのではないかと思っている。彼らは、国家の政治・経済のシステムがいかにゆがもうと、自らの権益確保のために圧力をかけつづけ、政府を動かしてきたのだから。国民へのしわ寄せなど、何食わぬ顔で無視しつづけ、強いてきたのだから。

そして、奥谷の強弁も、自らに忍び寄る国民の強い抵抗を感じ取っていることの反映でもあるのではないか。彼らは、まさに存亡の危機に立たされているといってもよいのかもしれない。
私たちがまず考える必要があるのは、労働者の派遣をうまく商売として成り立たせようとすることでなく、労働者とは常に守られなければならない存在なのだということだ。