政治の不作為とキヤノンの癒着事件


景気対策がもっとも重要だと麻生首相がいって久しいが、国民・有権者の眼に見える形でその手が打たれたとは、誰も思っていないだろう。雇用が日々切り捨てられているというのに、それに一つとして実効ある措置をとれない国会に、もどかしい思いが募る。

理屈はこうではないのか。これまでさんざん安い賃金で、しかも無権利の状態に自らがおいた派遣労働者のおかげでまさに途方もない利益をあげてきたのが大企業であって、それならば彼らの雇用を守る責任があるだろうということだ。大企業はそれを一切ふれていない。ためこんだ利益は、少なくともその一部は、雇用を守るのにあててしかるべきないのか、こう強く思う。

共産党が大企業代表を国会によべと要求している。国会が雇用を守るという点で役割を果たす、いちばんの近道は大企業を参考人として国会によんで、その社会的な責任をただすことである。すべての党がこれは一致できるし、やろうと思えばすぐにでもやれることであって、そうしなくてはならないだろう。
それでも国会はそのようには動かない。私は、「かんぽの宿」追及はもちろん必要だと考えるが、そこにすべてを収斂させていくような戦術のかげで、しだいに雇用問題が後景に押しやられているような気がしてならない。年度末には、すくなくとも18万5000人の「失業者」がつくりだされるという推計すら公式に発表されているというのに。
ここに、口先では雇用を守れといいながら、それを具体的に解決する上では大企業に雇用責任を果たさせなければならないのに、実際、大企業に物申すということになると尻込みしている政党の姿が浮かんでくる。麻生首相も企業の責任に多少なりとも答弁のなかでふれてきたし、自民党・大島国対委員長ですら「経団連に政府としてものを言わなければならない」とのべてきた。大島氏の発言には政党としても、という点を欠落させている点で留保がつく。まさに、自民党も、民主党も大企業にモノがいえないのだ。
つまり、雇用を守るという点では本来、一致しうるはずなのに、大企業いいなり、優遇というこれまでの自民党政治の悪弊がそれを阻んでいる。民主党は、この点でちがいをみせてほしいのだが、それはできない相談というものだろう。政権を奪おうとするのだから、これまでの自民党政権の本質を内在的に批判できれば、もっとも打撃的であるはずである。しかし、それはできない。できないからふれないということだ。国会での対応をみれば一目瞭然だが、結局、雇用を守るという点で政府も、この2つの政党も不作為をいわなければならない。

キヤノンは派遣切りでも率先して実行してきた。御手洗氏は派遣切りをいわばこの時期、当然のこととして発言してきた。
こうした働く者には比喩的にいえば冷酷な態度も厭わない一方で、自社の発注工事が脱税の舞台となってきたこと、異常なほどの親密な「個人的」関係をあえていえば社会的な、商取引において介在させること、つまり癒着というものに、御手洗氏がなんらの疑問ももたない人物であることも、われわれの前に明らかになった。苟も御手洗氏は経団連会長のはずだ。
二重の意味で鉄面皮のように私には思えるが、個人的なものもふくめて許し合える関係を重視し、大企業といういわば一つの階層の権益に固執する心性と、働く者を無権利に置き、モノのように扱えるという心性は表裏の関係であって、おそらく一つのものだろう。

キヤノンのこうした姿勢は、長年の自民党政治のなかで培われてきたともいえるのではないだろうか。経団連が、経済財政諮問会議のように首相をまじえた議論のなかでいっそう政治にも介入するようになって、この傾向は加速されてきたのではないか。たとえば、少なくない経団連のビジョンや政策が政府諮問機関の議論には必ずといってよいほど反映されるしくみが今日あるだろう。自社の中はもちろん、国の政治でも地方の政治でもその方向もゆがめるだけの力を財界・大企業はもっていることが重要だ。キヤノンは、それを身をもって証明していることになる。
そして、財界は今、道州制という方向で、国の仕事を最小国家的に限定し、地方政治に多くを押し付けようとしている。その上に、地方自治体の財政に介入し、企業の思い通りに開発政策や産業政策の道具にしようとしているのだ。

それだけに、財界・大企業の横暴や勝手、不正や無責任にたいして口をとざすことはできない。
今日の日本社会の抱える重要な課題の一つにちがいない、雇用を守るという課題で、すべての政党が大企業の参考人招致という手続き上はしごく簡単なことだが、一致する必要がある。参考人招致がおこなわれるか否か、日本の政治の力が試されている。
諸外国では、すでに安易な解雇を許さないという態度が常識化されているといってよいほどなのだから。