派遣村の経験と攻防


派遣切りを、この不景気を乗り切るための方針として大企業が定式化したかのように、少なくない企業が発表し、解雇者数が雪だるま式に増えるのが報道されてすでに久しい。年度末には8万5千人にのぼるだろうというのが公式の予測だが、おそらくそれを上回るにちがいない。

事態はしかし、派遣だけにとどまることなく、正職員にも解雇予告が及んでいる。ここにいたって、非正規ではないから大丈夫だろうという希望的な観測はもはや通用しなくなった。それでも製造業だから、製造業の事情だという意見が中にはあるのかもしれない。
けれど、景気は好転するどころか、より悪化するという観測を日銀が選択せざるをえないほど、日本を取り巻く状況もまた厳しくなっているというわけだから、製造業での深刻な雇用環境がそこだけにとどまるという保障はもちろんない。すでに、たとえば最近までにぎわっていた博多の歓楽街・中洲も、これまでの勢いはない。廃業が続く。店を訪れる客も、終電の時刻を気にしながら飲むというほどの、ある意味では世知辛いふるまいを国民に強いる状況に日本中がなっているということだ。
製造業のこうした雇用環境の悪化は周り回れば消費をにぶらせる。その結果、商業もサービス業も今後予測されるのは経営は芳しくなくなり、不景気が進行するだろうということだ。大企業ほどのドラスティックな首切りはないとしても、多くの業種に人員削減の波は広く、深くおしよせることにつながりかねない状況が、すぐそこにきているというわけだ。

ソニーの正職員の解雇が最近、報じられ、テレビのニュースでももちきりのようだ。労働者の声を伝えていて、それを視るかぎり、しだいに、景気の悪化見通しは浸透しているようで、いちようにうかがえるのは将来に対する不安だ。正職員も安閑としてはいられない。
それでも従順な日本国では、自分は派遣だから、派遣が解雇をいいわたされてもやむをえないと答える労働者もいないわけではない。正社員でさえ、こんな不景気だからと、いわば達観して意見をのべる者すらいた。こんな反応が日本国的なのだろうが。西欧では、もっと個々の要求ははっきりしていて、主張も明確だ。首切りには断固反対、こんな反応が一般的なのだろう。
こうした日本の報道番組に配置される世間の声というものは、もちろんメディアの番組制作者の意図がどこにあるのか、これに左右される。今日の事態を半ばやむをえないという受け止めもふくめて、制作者が肯定的にとらえるならば、財界・大企業の対応を受容すること、やむなしという着地点に思いが収斂されるような番組構成になる、と容易に想像できる。

ところで、派遣村が世に知られるようになるにつれて、派遣村という一つの運動にたいする巻き返しが起こっている。別のところでふれたように、そのこと自体、派遣村の経験の周囲に与えたインパクトの大きさを象徴しているのだが、先にあげたような受容的態度を報じる、別のことばでいえば消極的なものもふくめて、派遣村にたいする批判は日を追うごとに高まっているような気がしてならない。
巻き返しとは、単にネットの世界で派遣村への批判や中傷だけにとどまらない。つまり、新自由主義施策のはたんがいたるところで露呈するとともに、金融危機の世界的波及にたいして資本主義が打開策をいっこうに提起できないなかで、新自由主義ではない、別の道を歩くことが必要、選択せざるをえないという思いは、実際に塗炭の苦しみを味わった人びとばかりではなく、まさに多数の者の実感となって、その心をとらえつつある。これまで何ら疑うことなく新自由主義の推進派のあとにしたがってきた支配層と政権政党もその動揺は隠しきれないでいるのだ。小泉以後の安倍、福田、麻生という自民党公明党政権の誕生と崩壊の過程そのものが、これを余すことなく示しているのではないか。それは、打ち出す政策と実際の対応一つひとつに現れているではないか。あえて繰り返せば、当ブログが再三、指摘してきたところだが、福田政権のたとえば、後期高齢者医療制度一つをとっても明らかなように「政策的譲歩」、修正は数えるに余りある。舛添氏のキャラクターがあるにしても、彼の発言は常に、国民を意識し、それに迎合的なものにならざるをえないことをとりあげても、明らかではないか。

こんななかで派遣村の実践的経験は、反貧困という旗頭が、新自由主義に抗し、それとは異なる道を歩みたいという者の共通の一致点でありえたのは疑いのないところだ。それだけに支配層は、それを恐れたのだ。貧困を強いてきたのが当の支配層であったという事実に立つならば、反貧困の立場とはつまるところ反支配に接合されるからである。
だから、坂本哲志をしてそう語らしめたのだ。だから、田中康夫をもってして、派遣村共産党という強調を前面に押し出し、派遣村の経験から国民の眼をそらそうとしたのだ。田中康夫派遣村という一つの特殊な経験のなかに、支配層に矛先がむかうという(支配層としての)危険性を敏感につかみとり、支配層の権益を保持しようとして、支配層の声を代弁したということに尽きる。
仮に田中が真に反貧困の思想をもち、反貧困の流れがあまねくひろがることが道理だと理解しているのであれば、その一致点で共同できる範囲で共闘するということだ。そこで引き回しが実際にあるのなら、それを球団すればいい。彼の言い分どおり、共産党が仮に主導権を確保しようとしたとしても、あるいはそれがいやでイニシアを握られたくないのなら、自ら加わり、その道理のなさを指摘し、ふるまいを制止すればよかったまでのことにすぎない。それが正しいのなら、田中の主張が支持される。
そうではなかった。田中はまさに派遣村の外で、事態を支配層と同様のまなざしでながめ、あれは共産党なのだとまるで犬のように吠えたにすぎない。いかにも滑稽ではないか。

私は、昨年からの新自由主義のはたんが急速に露呈し、支配層が労働者にしわ寄せする傾向が定着する一方での、反新自由主義、反貧困の運動を支え、担ったのは、どの階層であるのか、それを考えることがあるし、この問題は、すでに決着していると思っている。
すなわち、反新自由主義、反貧困の立場の強調は、端的にいえばそれを推進してきた財界・大企業への強い批判と責任の明確化の追及に示されると考える。

この際、分かりやすいのは米国の事態である。
米国では、軍隊に入る人の多くは失業者かそれに近い人だといわれている。当ブログでは、日本でも派遣切りが横行するなかで、自衛隊の勧誘が派遣切りを視野に入れていることにふれたのだが、米国では軍隊リクルートは失業者、マイノリティがねらい打ちにされる。
考えてみると、これは、おかしな話である。つまり、米国を実際に守っているのは、または自らの命を賭けて米国を「敵」から守っているのは、豊かさの恩恵とはほとんど無縁のほかならぬ貧困層である。彼らは、国家とか国民に何らの恩義も、借りもない人びとなのだが、彼らこそが命を賭けされられているのだ。ここに逆転した構図がある。

先に日本では不景気を乗り切るための方針として労働者の首切りを大企業が定式化したかのようだとのべたが、その路線は定まりつつある。考えると、新自由主義的諸施策を貫くことによって、多額の利益をあげ、内部に溜め込んできたのが財界・大企業だった。労働者の賃上げはなく、むしろ減少するなかでのことだから、労働者から搾り取る一方で、大企業だけが富を築いたといってよい。所得再分配の機能が低下し、労働者の取り分、割合は労働分配率という指標で明らかなように低下してきたのだった。結局、富が一部に集中するしくみが構築されたことになる。この構造は、市場を国内ではなく、むしろ海外に求めることと結合していた。そうした志向性が、金融危機が迫ると、逆に負の条件になった。影響の拡散を加速度的に国内に高めたのだ。
だから、財界や大企業がこの事態にいたって、働く者の働く者としての資格を解雇・首切りによって奪おうとすることに端的なように、景気がよいとされる時期には搾り取るとることによって、景気悪化が叫ばれると解雇・首切りという手段によって、つまり常に労働者を調整弁にするのが資本の論理だということを我われが把握することこそ、では別の道を歩こうとするとき重要なのではないか。
日本でも、米国同様、恩恵を受けるものは、身の安全を問われかねないなどという危険とは無関係であるし、その意味で自らの存在意義を問われてきたのはいうまでもなく労働者ではなかったか。つきつめていえば、代わりはいくらでもいるといわんばかりの扱いを受けてきたのは働く者以外には他になかったのだ。

こんな一部始終が広く伝播されることを恐れるのは支配層である。その契機を反貧困のとりくみが切り開き、金融危機のもたらした特殊な条件を逆に活かし、特殊な経験に高めたのが派遣村のとりくみだったと私は考える。

その衝撃が大きいからこそ、派遣村をめぐってイデオロギー面の攻防が続くだろう。
だから、派遣村を訪れた者は、国民の皆さん方とはちがう特殊な人たちだという、
あるいは、彼らは働く意思を持っていないという、彼らだけがなぜ支援されないといけないのかという、彼らは仕事を選んでいるから(仕事に就けないの)だというような、全体から異なる部分として分断し、差別するという、新自由主義のなかでもっとも繰り返されてきた、支配者の手法がこの時期に再び、採られていることに着目せざるをえない。
働く者が真実を知ることを最も恐れているのは、いうまでもなく時の世を支配している者なのだから。
彼らは、反貧困の広がりと指弾の対象が自らに及ぶことこそ最大の恐怖なのだから。