ワークシェアという言葉に振り回されるな


御手洗富士夫氏が語ると、経団連会長の言葉ですから、やはり影響力がある。

ワークシェアリングも一つの選択肢で、そういう選択をする企業があってもいい
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090106-OYT1T00626.htm
このように氏がのべると、もうすでに日本社会が、日本の企業が少なからず反応し、日本全体をながめると一つの方向が定まるかのようです。
日本では、ワークシェアリングは実際には定着しえてこなかったのが今日まででした。しかし、この不景気といわれるなか、仕事を分かち合い、雇用を守るのならば、と善意の理解が広まるふしがまったくないこともないようです。

けれど、一人ひとりの労働時間を減らして、仕事を分かち合って失業をなくす、これが本来のワークシェアの考え方だとすると、御手洗氏のいうワークシェアというのはカッコでくくる必要があるのでは。第一、御手洗氏に雇用を守るという視点が定まっているのでしょうか。氏の視野に、非正規労働者の雇用があるのでしょうか。あるのなら、非正規労働者の派遣切りがあろうはずはないからです。
ですから、非正規の雇用環境を考慮しない、「ワークシェア」なんてその名に値しないといってよいでしょう。

つまり、今日、御手洗氏の発言に端的なように、日本の財界・大企業が主張するワークシェアというのは、結局、労働者に賃下げを迫るものといえそうです。非正規は首を切るのが、つまり切り捨てる前提で、その上に正規労働者の賃金をいかに削るのか、この関心から発せられる言葉が日本流「ワークシェア」といえるでしょう。

その意味では、西欧諸国の、熟した言葉であるワークシェアと、日本のカッコつきのそれは似て非なるものです。オランダの経験はあまりにも有名ですが、一人当たりの労働時間は200時間短縮される一方、失業者は目だって減ったといわけるくらいです。いわゆるワッセナー合意。
対照的に、企業の利益確保・維持の観点が常に出発点にある日本では、いきおい総労働時間を維持しつつ、労働者一人あたりの賃金抑制にむかうのがオチで、まさに日本式ではないでしょうか。

ようするに日本では、本来の雇用を拡大するのではなく、労働者の賃下げを徹底するための方便として機能させるのがシェアワーキングと理解されているのです。