消費税増税のための、与謝野氏の方便がここにある。


与謝野経済財政相の言葉は、さりげなく聞けば耳障りのよい、あたかも妥当なものであるかのように受け止めることができるのでしょうが。でも、単純にはもっともだとは受け取れない、先に片付けられねばならない問題をふくむ発言でもある、こう思います。
消費増税なら「政党交付金、議員歳費半分に」 経財相

まず、政党交付金、議員歳費を同列に扱う問題。政党交付金、つまり政党助成金は、もともと国民の税金で政党に助成する性格をもっているのですから、国民それぞれの支持政党とは関係なしに政党に配分される問題を指摘しないわけにはいきません。支持しない政党に、いくらかでも自分の税金が回るという不条理。これはどこまでも解決することができません。近代政治においては、いうまでもなく自ら支持する政党に自ら募金する、これが確立された原則でしょうから。

これと議員歳費を同列においてよいのか、疑問を私は率直にもつわけです。国民の立場にたった、国民のための議員活動に、極端なことをいえばいくら使っても国民がそれを評価すれば否というわけにはいかない。これが私の考え方です。問題は、ほとんど国民本位の立場とはいえず、往々にして国会で質問もしない議員にも同様の歳費があてがわれている矛盾、これをどう解決するかということでしょう。政党政治の今日、それは、おそらく個々の政党の、国民の目線との距離感に左右されると思うのですが、それぞれの政党の議員活動の位置づけが問われているといわなければならない。これを、政党助成金と同様の水準で扱うムリ、矛盾は、ほとんど明らかではないでしょうか。

こんな問題を、あたかもムダをなくすというただ一点でくくってしまい、つまり、政党交付金も、議員歳費もムダという余剰があるという認識でしょうが、それを生贄に消費税を増税しようとする魂胆を、第一に発言はふくんでいます。
欺瞞だと思うのは、まさに発言する氏が所属する自民党そのものが、これまで何事もなかったかのように多額の政党交付金をせしめ、そして議員歳費を受け取ってきたという事実です。消費税を増税しようとしまいと、政党交付金を受けることの是非の問題は存在する。また、自民党議員のなかには当選したものの、ほとんど質問にも立たない議員が少なくないという事実、つまり同党のこれまでの議員活動のありようと、国民の望む国会議員の活動のあり方にてらし、同党がどう受け止め、消化してきたのか、それが問われてしかるべきだということではないでしょうか。
与謝野大臣は、その意味で偽善家であることを自ら証明している、こういってしまうといいすぎでしょうか。
今回の発言自体も、どれほど実践し、あらためようとしようと腹積もりができているのか、といえばほとんど首をかしげたくなる程度のもののように思えます。

さらにえいば、なるほどムダがあるのなら、それは正した上で、にっちもさっちもいかないことが周知の事実となり、もはや財源を確保する上で、消費税以外にない、これが国民に十分に納得されなければならないでしょう。日本の政治シーンでは少なくともこんな状況はもたらされてはいません。
もっとも欺瞞的なのは、今でも聖域とよばれる手をつけてはならない部分は、なぜそうなのか国民に説明されることなく温存されているのですから。

消費税増税は、むしろ、そうした聖域を聖域として保持するための方便ではないでしょうか。すなわち、消費税に財源を求めることと、企業優遇税制を見直すことは、政治路線上鋭く対立するものとして定立させられてきたといえる。
別の言葉でいえば、税のとり方、この点で鋭い階級的対立があるのです。少なくとも日本の政治は、分かりやすくいえば、大企業の税を優遇しつつ、一方で大衆課税を強めることで推移してきたといえる。働く者への賃金抑制を強めることとあわせて、税の取り方で低所得者にシフトするという、いわば二重の意味で、再分配を弱めてきた結果が今日の貧困の極まりを端的に表現しているのでしょう。

与謝野発言は今日のこうした事態から目をそむけ、消費税増税を準備するための、体のよい発言と断ぜざるをえません。
つまり、税制上、極端な大企業優遇をつづけ、国民の少なくない部分を貧困に至らしめ格差を広げてきた自民党政治に無反省でありながら、こうした「お利口な発言」をなすことに強い疑念を私は抱きます。大企業や大資産家への課税を強化することに比べれば、与謝野氏のいう「ムダ見直し」の効果など足元にも及ばない。
企業減税から目をそらす、ここにこそ、財界・大企業が消費税増税を至上命題とする理由があるし、それを支えるという与謝野発言の真意があるのです。
(「世相を拾う」09018)