二つの党大会と西松建設献金問題


もう一つの日本の可能性というエントリーで、西松建設の違法献金についてふれた。
下記の報道によれば、西松建設は周到な手法を準備し、大がかりな裏金づくりと違法献金をつづけていたようだ。
同時に、私が目を奪われるのは、かかわっている政治家の顔ぶれである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090118-00000007-yom-soci

http://news.livedoor.com/article/detail/3980337/

もう一つの可能性という以上、現状の日本ではない日本をむろん展望している。
今ある日本ではない、もう一つの日本では、こんな大企業と政界との癒着のしくみを断ち切るような日本でなければならない。すなわち、今日の違法献金を生み出す要因となっている企業献金を一切認めない日本であってほしいと強く思う。

大企業は今、まさにその社会的責任というものが問われている。
先を争うような派遣切り。それだけではなく、予想にたがわず正規職員切りに乗り出している。世界的不況を口実に。しかも、それが日本ではなく、米国発であるということを、最大限に利用して、あたかも不可避の、あるいはやむをえないものとして労働者の首切りを是認させようとしていることを注視せざるをえない。
しかし、一つ例をあげ、重ねていえば、大企業は地方自治体から誘致にあたって多額の補助金を得ている。つまり、当該住民の税金がそれに充てられている。それだけではなく、企業のつくり出す製品は地域の消費志向が高まらない限り、売り上げは伸びない、モノが売れないのだ。この間、日本の国内消費を高めようにも、正規から非正規労働者への置き換えがすすみ、相対的に低所得者がつくり出され、所得も減らされれば、モノを買うにも買えない。結局、不況がすすむと、そのツケが大企業にも回ってきたのだ。ようは、国内消費を高めることは、回り回って企業の経営活動にも結びつくわけである。

日本の大企業は、回り道のようであっても、国内消費を高め経営にも結びつけるというのではなく、短期的にみれば、もっとも容易な、労働者にそのツケを回すという手段を選択したのであった。
こうして社会的責任を果たそうとしない日本の大企業の姿勢というものは、西松建設に端的なように、政治(家)との癒着という個別、特殊な関係を結ぶそれと接合している。社会的な責任というものを認識するのならば、個別の贈与と反対贈与を期待する自己完結的な癒着など選ぼうはずはないからである。

昨日、政権を争うといわれる自民党民主党の党大会が終わった。華々しく政権交代を一方がうたえば、他方は責任政党としての存在感を強調した。とってかわろうとする側も、守ろうとする側も、しかし、こうして献金リストに名を連ねているのはなぜか。
おそらく、それは、政権交代や死守ということが、国民という主体とは無関係なものであるからにちがいない。献金を大企業からもらって、国民を大事にする政治というものができるのか。それは、ここ数ヶ月の事態の推移を直視すれば、およそ誰にも分かろうというものだ。つまり、大企業は自らのために、働く者をつめに切る用意があるということだ。モノとして扱う覚悟ができあがっているのだ。
これに抗おうとすれば、金を一方でもらっていては不可能だろう。名を連ねている政治家のいったい誰が、大企業を追及しえているのか。

繰り返していえば、党大会を終え、さあこれから「対立」という時期に、一方の党首もからむ西松問題が再燃していることに私は注目するが、メディアが伝える政権交代も、「対立」も、一歩、政治の表層から中に踏み込むと、姿を隠し、そんな表向きの「対立」とは無関係なところで、溶解したところに政治家の群れがあるということを示している。

だから、どんな日本をつくろうとしているのか、これを私たちはあらためて問わねばならないのではないか。あえて彼らが語ろうとしないのには、訳があるだろう。何もかわらないか、または、彼らがつくろうとしている日本とは、結局、そこに国民が不在ということが大いに予想されることなのだから。