坂本哲志発言と新自由主義からの決別ということ。


新自由主義が世間の厳しい目にさらされている。
さかのぼれば臨調行革にたどりつく、日本の新自由主義の流れ。その残した亀裂に国民の多くが直面し、ようやくこれではだめだと気づくこととなった。臨調行革が路線として明確に敷かれることになったとき、私たちは、その特徴を分断と差別という言葉でよく表現したものであった。
今日の目でふりかえると、あながちそれはまちがいではなかったといえる。
あえて今日の新自由主義という言い方をすれば、これもまた、徹底して国民の分断を図り、そうして結果的に差別を合理化するものであった。国民のなかに亀裂をもちこむことが、支配ということにとっていかに重要か、新自由主義を推進しようとする時の支配者は知悉していたということになる。
私たちの多くにとって、勝ち組・負け組という言葉、自己責任という言葉をいまや知らない者はいない。つまり、世の中のあらゆることは自分で切り開け、できないのはおまえが悪いからだ。これが簡潔で端的な言い回しだった。そして、毎日の生活がままならぬ事態もまた、自分に回収してしまうようになっていった。格差が広がり、貧困に直面する人がしだいに増えても、それが可視化されず、問題として共有されなかった要因にそのことはおそらく直結している。この一連のしくみが、国民のなかに広く伝播する、そうでなければ浸透せず、路線として定着しないのが新自由主義である。
当ブログが再三、ハーヴェイを引用しつつ、運動の下支えが必ずあるといってきたのはこのことである。
つまり、私たち自身がいかに以上の新自由主義を本意ならずも推進する思想に染まっていたのか、今の時点でふりかえってみる必要がある。

坂本哲志総務政務官の発言が問題となっている。政府はまた頭の痛い問題を抱えることになった。しかし、今日の事態に私たちが直面して、あらためてそのおかしさに気づくのだろうが、あえていえば坂本氏と同様の考え方は、率直にいえば、深く、広く最近まで潜行していたのではないか。
先に、勝ち組・負け組のことをいったが、負け組になるまいとし、人を蹴落とすこともまたやむをえないと大方がおそらく考えた。しかも、この際、事態をいっそう複雑にするのは、負け組をさも「おまえが悪い。自業自得」といわんばかりの、あざ笑うかのような勝ち組と自ら判断する者の視線と口調ではなかったか。つまり、その心性が、まさに新自由主義を支えていたのだった。こんな形で今日まで臨調行革以来の分断と差別が貫かれていたのではなかろうか。
この際、私たちが結果的につき動かされ、促され、その気になっていったのは、こんな人物たちの発言の一つひとつであったろう。
たとえばその一つ。奥谷禮子氏。

自己管理しつつ自分で能力開発をしていけないような人たちは、ハッキリ言って、それなりの処遇でしかない。格差社会と言いますけれど、格差なんて当然出てきます。仕方ないでしょう、能力には差があるのだから。結果平等ではなく機会平等へと社会を変えてきたのは私たちですよ。下流社会だの何だの、言葉遊びですよ。そう言って甘やかすのはいかがなものか、ということです。
さらなる長時間労働、過労死を招くという反発がありますが、だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言えませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います。

氏の『週刊東洋経済』(07・1・13)での発言だ。
氏が語るのは、自己責任の強調である。あたかも努力すればそれが報われるかのような言説。それをまともに受け止めてきたのは、私たちであって、それが結果として新自由主義の徹底に少なからぬ役割を果たしたのだ。


けれど、こうして一時期は圧倒的な支持を得た、小泉流の新自由主義的改革、「構造改革」も時が経ち、「改革」が生み出す亀裂が多数の国民を飲み込む事態にいたって、国民の間にしだいにこのままでよいのか、という実感をもたらすことになった。つまり、湯浅氏が的確にたとえているように、研ぎ澄ませば研ぎ澄ますだけ実感されうる、明日は自分ではないかという「すべり台社会」の不安が現実のものに転嫁する。それがまさに今日伝えられる事態だろう。いまは非正規のことだと高をくくっていても、それが正規に及ばないと保障しうる人がどれだけいるのか。いない。これが働く者の不安となって現れている。現に、すでに伝えられるところでは正規もまた解雇の対象となっている。

日本をふくめて資本主義が金融・経済危機をいかに乗り切るのか。いまだに処方箋を明確にしえないという事実が、今日の資本主義そのものの危機をそのまま表現している。資本主義の限界をいいだすものもすでに少なからずいて、しかし、それは私たちの周りの状況を直視すると十分うなづけるものではないか。
うきつめると、それだけの危機に日本社会を牛耳る財界・大企業が直面しているわけだが、すなわち、別のことばでいえば、これは、かつて常套語であった階級的対立のなかに今、日本があるということを示している。それは、ある意味で単純で、古典的な労働者の首切りを軸にしているという点で、深刻でもある。

一日一日の首切りを許してはならない。今後、首切りの拡大を許せはしない。ましてや、これまで労働者を搾りに搾って貯め込みをつづけ、その一部を取り崩したくらいで、企業の経営活動に支障を来たすなど、到底いえないくらいのものであることは容易に推測できるものなのだから。そんな現実をまず私たちは共通のものにしないといけないだろう。内部留保の一部をはきだせ、これを党派を超えたものにしないといけないだろう。

坂本氏の発言はだから、現実をとらえたものとはまったくいえない程度の発言だ。
まじめに働こうとする意思の有る無しにかかわりなく、事態はもう深みにはまっている。そんな意思とはかかわりないところで、労働者の命を奪いかねないところにあるのが今の事態だ。まじめか否かとは別に、現に働いてきて、解雇され、手持ちの金が百円にも満たない30台の青年労働者が路頭に迷う。こんな事実がたとえ一人でもあったならば、そこにどう手を差し伸べるのか、大なり小なり、それが政治のやる仕事ではないか。
坂本氏は政治家であって、この現実にまったく向き合えない一人であることがあらためて確かめられたわけだ。しかし、こんないいようで、分断を図ろうとする意思が働いていることを見抜かなければならない。あたかも個々人の気持ちが問題であるかのように。

私たちが仮にもこれまでの新自由主義の日本の深化にたとい微々たる一部分ではあっても下支えしてきたという反省に立つのなら、きっぱりとこれまでをここで脱ぎ捨て、新自由主義にすがりつこうとする勢力に今度はしっぺ返しをしなくてはならないだろう。
総選挙は、その絶好に機会にしたいものだ。
新自由主義にすがりつこうとするか否かの試金石は、財界・大企業に対峙しうるか否か、悪いことは悪いと真正面から批判できるかどうか、そこにある。
それを、一つの物差しに、政党それぞれを監視し、選択しないといけない。これが新自由主義からの決別の意味ではなかろうか。