新自由主義からの決別を語れない「朝日」社説


元日の朝日社説の結論は、「たくましい政治が要る」ということだ。
混迷の中で考える―人間主役に大きな絵を

しかし、「たくましい政治」とはきわめてあいまいで、いまの政治からどう転換を図るのか、まったく定かではない。結局、今の政治のゆがみ隠し、それに言及していない意図がそんな表現を強いるのだ。

繰り返し、当ブログは今の自民党政治の本質を、大企業優遇と米国追随だとのべてきた。これをたださないと、新自由主義から反転させることはできない。今の国会のなかの政党にも、そしてマスメディアの多くにも欠如しているのはこの点である。それは、すなわちこれまでの自民党政治の枠組みにとどまることを意味している。

もう一昨年のことになったが、サブプライムローンを引き金にしたバブルがはじけ、金融危機が昨年、世界中を覆い尽くし、たとえば解雇の横行にみられるような、日本では誰もが知る事態に至った。ここ2年ばかりの世界で引き起こされた事象が、ものの見事に、経済のグロバル化と新自由主義がもたらすものを示した。まさに劇的に。

新自由主義からの決別を多くの論者がいう。ブログ上でも。
ハーヴェイのいうように、それを下支えする運動があるのが新自由主義で、とくに小泉構造改革以後の日本はそれに覆われた。勝ち組、負け組の言葉が一世を風靡したように。自己責任がいたるところで強調されたように。
別の角度からみると、資本の論理の強調だった。戦後、高度成長とも結合した企業内で自己完結する企業社会と、新自由主義はうまく結合した。企業内の競争と正規・非正規の差別を徹底しようとする企業の思惑に、長年の企業社会を活用することはそれほどむつかしくはなかった。
そして、この企業社会の中で醸成された意識は、いまでも日本の底流に潜んでいるのではないか。

いままさに、非正規を切り捨てることで、蓄積の構造を維持しようとする企業の論理を問うことが、政治に求められている。自民党よ、民主党社民党よ、いま大企業に解雇撤回をせまるべきではないのか。解雇されたものの具体的な支援を、政府と大企業に求め、実行に移させることではないか。
単なる一つの問題だが、各政党がこれまでの自民党政治からの転換を図ろうとしているのか否か、これが問われる試金石になる問題だと考える。

朝日の社説は、このような見方からすると、まったく体制内にとどまった主張だといえる。その意味であいまいなのだ。
メディアは、繰り返すと、大企業に牛耳られている。それを端的に示したのが、昨年の奥田発言、マスコミへの脅しだった。

つまり、事態は、日本の政治のゆがみを生み出す大本を照らし出すところにあるということだ。新自由主義という路線は、財界・大企業優遇と米国追従にいかに日本政治が侵されているのか、それを私たちの眼前に示したのだ。
2009年は、だから支配層にとっては一つの困難に直面しているわけであって、総選挙では、国民が横暴・勝手を管理しうる政治を手にするための第一歩にしないといけない。新自由主義に賛成する政党は選ばないことだ。

国民にとって、ふさわしい政治とは新自由主義と真に決別した、財界・大企業優遇と米国追従のゆがみをただせる政治を意味している。
朝日は、新自由主義からの決別を語れない。
だから、朝日の社説はつまらないのである。