解雇の年末− 働く能力のある者全てに機会を


ポスト麻生をめぐる動きが活発になって、自民党内で反目しあう状況を招いている。政界再編を前提に動き始めた一部にたいする党内からのさや当てが強まれば、一方の側がそれに反論するという具合に。重要なことは、彼らが、緊急の課題ともいえる労働者の雇用や景気回復のための具体的な手だてなど、寸分も語ることなく、抗争に明け暮れているということだ。その意味で、党派を超えた対応が必要で、それは具体的に解雇される一人一人の今日、明日、当面の生活を守ることだ。
面白いのは、とるに足らないこんな喧嘩のようなものにつきあうブロガーも少なくないことだ。
メディアが追いはじめた政界再編など、路線対立といえるものだろうか。名前のあがっている連中をくくる枠組みとははたしてどんなものか、まったく明確ではない。それは党内の主導権争い、離合集散以上のものではない。それ以外の意味づけは不要なように私には思える。
明確なのは、雇用環境の悪化をもたらした大企業の対応が依然、労働者への犠牲の押しつけを軸にしたものであって、それは昨日エントリーでふれたように、経団連春闘への対応方針に明確に表われている。ベアは困難だという。一方で雇用安定を放棄したかのような方針になっている。
日経新聞は、労働組合のベア要求を牽制して「『非正規』しわ寄せも」という見出しを立てた(12月17日)。賃上げと雇用とを対立させて、分断で労組の足をとめようというものだ。

朝日新聞記者の伊藤千尋氏は、講演で、よくコスタリカの民主主義を紹介する(『活憲の時代』)。コスタリカでは小学生でも憲法違反の訴訟を起こすそうだ。
小学2年生の少年が放課後、サッカーに興じていた。ボールが校庭そばのドブ川に落ちることがしばしばだったという。なぜなら、柵が設けられていないためだ。夢中になればドブ川に落ちるボール。これは、ちゃんと遊ぶという自分の権利が守られていないというわけで、訴訟し、勝ったという。
国は柵を後日つくることになった。
日本では考えられないことだが、コスタリカでは電話一本でも「憲法違反だ」といえば訴訟がはじまる。もちろん訴状はいるが、それはなんとビール瓶のラベル裏に書き留めた、簡単なもので可というのだから、驚く。

我われ日本人が疑問をもつのは、なぜ小学生が憲法を知っているのかということ。大人でも憲法に親しむ作風が日本にあるのかといえば、そうではないのに。その種明かしは、コスタリカでは小学入学時に徹底して基本的人権を教えるらしい。もちろん、そんな難しい表現ではなく、「人は誰でも愛される権利がある」という一言だ。つまり、少年は、サッカーに興じる環境にないことを、自分は愛されていないと受け止めたわけである。「人は誰でも愛される権利がある」という言葉は小学校に入ってはじめて習う言葉なのだ。

コスタリカみたいな実践的な憲法教育が日本で定着しているとはもちろんいいがたい。
しかし、考えてみると、わが日本国の憲法もまた、よくできている。

憲法13条をまずあげたい。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

コスタリカとかわらないのではないだろうか。
その上で生存権を具体的に規定する。たとえば第27条。

第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。

ようは、労働能力のある者には就労の機会を与えよ、労働する者に関しては人たるに値する生活が可能となる賃金・労働時間その他の労働条件を保障せよということだ。
労働権ともいわれるこの憲法の条項にてらして、今日、日本国で繰り返されているのは違憲ともいえる実態ではないだろうか。
働く能力のある者に最大限の手当をつくせ。これこそ、我われがいま一致すべき要諦ではなかろうか。そのための連帯の輪をひろげないといけない。
国会は、だから超党派で可能な具体策をとれということだ。大企業にたいする規制は焦眉の課題だ。政治の責任は重い。
だから、冒頭のいさかいは滑稽ですらある。
(「世相を拾う」08266)